点と線 松本清張作 

 

  『点と線』といえば社会派推理小説の先駆けとなる松本清張の代表作であり、戦後探偵小説を「お化け屋敷」と評し壊滅寸前にまで追いつめてしまった作品と一般的にみなされているようである。しかし、『点と線』は先行して刊行された鮎川哲也の『黒いトランク』と比較して見ると類似点が多々求められる。鮎川哲也氏は戦後探偵小説が衰亡するなかに現れた唯一の本格探偵小説の新人作家とされているのである。
 『点と線』は新潮文庫版の解説で平野謙氏も指摘しているように、フレンチ警部シリーズでおなじみのF・W・クロフツの影響下にあることは間違いない。『点と線』は推理小説のなかでも「アリバイ破り」というジャンルに属する。そしてこの「アリバイ破り」というジャンルの開拓者が『樽』で有名なイギリス作家クロフツである。
 フレンチ警部は、探偵小説の中心地をイギリスからアメリカに移動させた本格派の巨匠ヴァン・ダインの名探偵ファイロ・ヴァンスとは対照的に地道な捜査で粘り強く犯人のアリバイをひとつひとつコツコツと崩してゆく、どちらかというと凡庸な探偵で、『点と線』の三原警部補や『黒いトランク』の鬼貫警部の雛形でもある。
 『点と線』で使われている時刻表のトリックは、クロフツの代表作である『樽』でも旅行案内という形で既に存在していたし、列車時刻表そのものを掲載した推理小説としては鮎川哲也の『黒いトランク』の方が1年も先である。鮎川哲也の『黒いトランク』は飛行機が利用できない設定になっているのに対し、『点と線』では列車が駄目なら飛行機という今では当たり前になっている安直な手段が設定されている。『点と線』のトリックとしての斬新さは東京駅での13番ホームから15番ホームのあさかぜが見通せる4分間の間隙しかない。
「人間には先入観が気づかぬうちに働いて、そんなことはわかりきったことだと素通りすることがある。これがこわいのだ。この慢性になった常識が盲点を作ることがたびたびある」という鳥飼刑事の言葉を反芻する場面も、『黒いトランク』では風見鶏と風向きの関係で鬼貫警部も指摘している。
 また死体移動というトリックもまた両作品の共通点である。『黒いトランク』では死体は東京と九州を往復するという壮大なものに対し、『点と線』では情死にみせかけるためのごくごく近距離の移動という違いはあるにせよ、死体の移動を犯人のアリバイ工作に利用するという発想は同じである。
 社会派を名乗る作家たちは、本格探偵小説にはリアリティがないというが、リアリティだけを問題にするのであれば、そもそも推理小説形式は無用の長物である。犯罪を扱ったノンフィクションを書けば良いことになってしまう。小説がフィクションである以上表面的には現実と乖離するのは当然のことといえる。プルーストの『失われた時を求めて』やジョイスの『ユリシーズ』を前にリアリティを問う作家がいるだろうか?
 確かに第二次大戦前の本格探偵小説の黄金時代から「つくりものすぎる」という批判が繰り返しなされてきた。都筑道夫氏が『黄色い部屋はいかに改装されたか』の中で「ひとを殺すというのは、たいへんなことだ。激情にかられて、思わず殺してしまったというならとにかく、自分がつかまらないように、計画を立てて殺すとなると、だれだって慎重になる。それなのに予告をしたり、なにかに見立てて連続殺人をやったりするのは、つくりごとすぎる(不自然)じゃないか、というわけです」と指摘している通りである。ヴァン・ダインやディクスン・カーの作品にさえ、こうした矛盾や不自然さが付きまとっている。特にカーは「三つの棺」のなかの有名な密室講義のなかで、「問題は必然性ではなく可能性だ」というようなことまで言っているとして、都筑氏は「密室トリックさえ、現実におこなえる完璧さがされば、なぜそんな犯行をわざわざするかは、問題じゃない、というわけなのでしょう」と言い、トリック偏重の推理小説の不自然さを批判している。
 本格探偵小説におけるリアリティとは謎を解明する論理の整合性は勿論ですが、謎の設定やトリックに不自然さがないことであり、そこに生活する人間がその時代に沿った形で描かれることにあると思っている。「時代に沿った形で」と述べたのは、19世紀的人間像と20世紀的な人間像は同じではないし、本格探偵小説を「人間が描けていない」と評する批評家諸氏の人間観はどうも19世紀的な人間像を理想としているように思われてならないからである。こうした批評を目にする度に、私はピカソの人物画を思い浮かべてしまう。

 

 都筑氏も先のエッセイの中で「推理小説の不可能問題も、読者がそれを希望し、作者が可能にしてみせるだけのことには、違いないけれど、そこには登場人物の生活があります。それは、われわれの生活を模したオーディナリ・ライフです。つまり、パズラー・ファンの欲するのは、オーディナリ・ライフに起こるエクトロディナリ・ケースと、その解決です」と指摘している。「カーのたとえを借用すれば、逆立ちしたまま、人殺しをする話にはどうやったか、というだけでなく、なぜ逆立ちしたか、までが謎なのです」から「逆立ちした理由は、どうでもいい、というのでは、舞台奇術と変わりがない」というわけだ。
 こうした点を松本清張は「お化け屋敷」と評したのだろうと推測している。確かに松本清張の作品には逆立ちする人間は存在せず、地にしっかり足がついている。とすると、鮎川哲也の『黒いトランク』も同じではないか?では何故、松本清張が社会派で、鮎川哲也は社会派と見なされなかったのか?それはおそらく奇想天外な屍体移動のトリックのせいだろう。しかし、このトリックがあったが故に、『黒いとトランク』はクロフツの『樽』の「模倣」からみごとに「逸脱」しているのである。
 しかし、『点と線』と『黒いトランク』の最も大きな違いは犯人の動機だろう。『点と線』では、高級官僚に「恩を売る」り、代償として、莫大な利益を期待したものであるのに対し、『黒いとランク』では犯人の義憤である。一見松本清張が描いて見せた動機の方が現実的に見える。しかし、そこにあるのは、ようするに平和な時代の姑息な犯罪にすぎないのである。戦中にも敗戦直後にも、汚職事件や官僚と業者の癒着は存在したに違いない。いや、混乱期であればなおさら、露骨な不正が大規模におこなわれていた。しかし汚職や疑獄事件は、どちらかといえば些末な問題であると、常識的にはみなされていたのである。明日の生死をもしれない戦災と飢餓、大量死の脅威に押し潰された人々は、その種の不正行為に国民的な関心を集中するような余裕を欠いていた。
 「官僚の汚職に憤激し、検察の追及に快哉を叫ぶ大衆の存在は、平和と社会的安定、そして経済的繁栄を前提としている。切迫した餓死の危険性から開放されてはじめて、人々は他人の不正蓄財に憤る余裕を与えられるのだ。そうしたタイプの大衆存在に、絶対戦争の過酷な経験から生じた探偵小説形式はなじまない」と笠井潔氏が指摘しているように、1950年代後半の「現在」の論理を優先すれば、戦争の「過去」に根拠をもつ探偵小説形式は、現在性を欠いたものとして破棄されざるをえないはずである。
 笠井潔氏が指摘するように「平和な時代の凡庸な犯罪者には、緻密なアリバイトリックは不似合いである」。高級官僚に「恩を売る」ため、犯人は疑獄事件の焦点の男を抹殺しようと決意する。不当な利潤を獲得するため、人命など歯牙にもかけない企業犯罪は多々あるにせよ、経営者が個人として、そのために殺人を請け負うという設定には、既に不整合が無視できないのではないか。加えて、人工性の極点をきわめたアリバイトリック。要約すれば、「現在」に由来する動機と、「過去」にふさわしい探偵小説的トリックの両極に引き裂かれ、作品『点と線』は、小説として空中分解しかねない危機をはらんでいる。それを回避するために鮎川哲也は、動機の設定において、『黒いトランク』では一見非現実的に見える義憤や、『黒い白鳥』では「現在」に進入する「過去」というモチーフを導入したはずである。小説形式に無自覚で、表面的なリアリティを追求するあまり、社会派作家たちは社会犯罪小説家と堕し、ついには消滅するに至る。後には安直なトラベルミステリィばかりが量産される不毛な時代が続くことになる。
 しかし、松本清張は、この危険性に決して無自覚ではなかった。平凡な動機と異様なまでに緻密な犯行計画の人間的断絶は、犯人の病身の妻というキャラクターにおいて、最終的に結び付けられる。鮎川哲也の『憎悪の化石』で描かれた犯人に、妻の自殺をめぐる戦中の体験。『黒い白鳥』のおける犯人の、戦後混乱期の隠された過去。犯人の動機に内在化されていた「過去―現在」の二重性が、『点と線』では犯行の計画者であるキャラクターの存在に、巧妙に変換されているともいえる。
 身体的あるいは精神的欠損を抱えた人物や、才能と境遇の落差に悩む人物が劣弱感やルサンチマンの代償として過剰な観念を紡ぎだし、おのれの観念の重圧に押し潰されて破滅するという主題の短編作品が、初期清張作品には幾篇もある。芥川賞を受賞した「或る『小倉日記』伝」をはじめ、「菊枕」や「断碑」など。過剰な観念的情熱は、「或る『小倉日記』伝」の耕作の場合には、ほとんど成果の期待できない鴎外研究に集中される。「菊枕」のぬいは俳句、「断碑」の卓治は考古学に偏執する。小倉時代の鴎外の足跡を明らかにすることは、作家研究として重要な作業だろう。しかしそれも、鴎外文学の全体像との照合においてなされなければ、研究としての意義を失う。このような観点を欠いた耕作の情熱は不毛である。そうした不毛な作業に、空虚な情熱を昂揚させるしかない耕作の運命は、また悲痛でもある。
 しかし、「初期清張が執着していた、耕作の人生に象徴される空虚と悲痛の主題性。「或る『小倉日記』伝」に代表される初期短篇は、現在喪失の観念的回復という普遍的テーマを清張風に変奏した、マイナーな作品として評価されるに過ぎない。この主題を、戦後探偵小説の問題圏に方法的に導入した瞬間、清張の独創性は他に類例を見ないものとして華々しく開花したというべきだろう」と笠井潔氏は松本清張を社会派の旗手としてではなく、戦後探偵小説作家としてより高く評価している。
 耕作は「壊れた人間」である。そして清張は、耕作の分身として『点と線』の犯人の妻を創造した。「戦後探偵小説の問題圏」に置きなおされた「壊れた人間」のキャラクターは、初期清張が固執した、不遇な才能の空虚と悲劇という抽象性を超え、二〇世紀的に荒々しい具体性を獲得する。「壊れた人間」として描かれる犯人の妻は、大量死をとげた無数の二〇世紀人の存在を象徴しているのだ。
 松本清張は『点と線』で、「壊れた人間」のキャラクター的象徴性において、戦後探偵小説の新しい可能性を探求した。作品として、復興をとげた一九五〇年代後半の日本社会に根をおろしながら、他方では戦後探偵小説の形式を保持しなければならないという二律背反は、平凡な動機と異常に綿密な犯罪計画の乖離を、「壊れた人間」のキャラクターにおいて統合するという類例のない構成に支えられて、達成された。
 「松本清張は、探偵小説創作における主題やモチーフや方法意識において、ほとんど鮎川哲也と至近距離で共鳴している。鮎川を最後の新人とする本格派の失墜は、清張を先頭とする社会派の隆盛の結果であるという類の通説は、戦後探偵小説論の観点では基本的に否定される。いわゆる社会派作品は、戦後探偵小説の最終的な到達形態と、その頽廃に過ぎない社会犯罪小説に分離されるべきだろう」と笠井氏は指摘している。また、都筑道夫氏も「事件本位だった推理小説をプロット本位の推理小説に移行させたところに、松本清張の仕事の意義がある、と私は考えます」と述べている。
 「『点と線』や『ゼロの焦点』など一九五〇年代後半の清張作品を、水上勉や黒岩重吾の社会犯罪小説と並記し、全体として本格派に対立させる通説は、日本のミステリ文学史から削除されなければならない。清張作品は社会派の先駆ではなく、むしろ戦後探偵小説の遍歴史の終幕を飾るものである」という笠井氏の意見に賛成である。
 社会派の残党が時刻表トリックに固執しトラベルミステリィの量産に入った頃、清張の「壊れた人間」を大量生産・大量消費のアメリカニズムのなかで自己を喪失した「人形」という形で再生したのが、竹本健治の『匣の中の失楽』であり、その精神を引き継いだのが本格探偵小説の第三の波の新人たちなのである。自ら「お化け屋敷」と評していた探偵小説の作家に自らの精神を引き継がれた清張は草葉の陰で何を想っているのだろうか?

 

 

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