キメラの繭 

 

 キメラとはギリシャ神話に登場するライオンの頭にヤギの胴体、ヘビの尻尾を持つ生物である。その姿が不可解で説明しにくいことから、「訳の解らないものごと」の例えにされることがある。
 そこから転じて、最近キメラは生物学、遺伝子工学において2個以上の胚に由来する細胞集団から形成された個体を意味するようになっている。つまり同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じることになる。有名なものにニワトリとウズラのキメラがあるが、植物では接ぎ木を行った場合にこの現象が起きることがある。
 本来通常の生物個体は、その体をつくっているすべての細胞は全く同じ遺伝子セットを核内に持っている。
 これは、1個の細胞である受精卵が細胞分裂と細胞分化を繰り返してでき上がったのが生物個体の体であるため、当然のことながらそれらの細胞は同じ染色体と遺伝子を持つクローンであることになる。これに反して、たとえば接木をした植物は体の部分によって違った遺伝子セットを持つ細胞が一緒になった個体であるため、この場合はキメラであるといえる。
 動物の場合には、もしラットの骨髄細胞を移植されたヌードマウスが存在すれば、マウスとラットの(造血系組織の)キメラということになる。同じ動物種のなかでも異なった近交系統のマウスの細胞を持つマウスはキメラであるし、近交系ではない動物の場合は、2個体の細胞が共存する動物はすでにキメラ動物である。

 

  クローン技術は勿論、最近は遺伝子組み換え作物なども増加の一途をたどっている。そんな中で高野裕美子の「キメラの繭」という小説は遺伝子組み換え作物から波及する恐怖を描いた作品といえる。鳥インフルエンザと狂犬病のキメラという少々SF的な要素も否定できないが、一般の読者に遺伝子組み換えの怖さを実感させる効果は十分にある作品だと感じた。
 島田荘司の「ハリウッド・サーティフィケイト」という小説にも牛や豚の体内に人間の遺伝子を移植して移植臓器を製造するという話がでてくる。これは臓器移植に伴う拒絶反応を失くすためということだが、牛の体に人の頭をもつ生き物が登場することになる。
 東野圭吾の「分身」という小説はクローニングをテーマにした作品だが、確か「キメラ」という言葉が登場していたように記憶している。
 遺伝子組み換え作物に対する危険性がようやく本格的に叫ばれるようになっているが、ほとんどの科学者は「究極の品種改良が遺伝子組み換えだと私は理解している」と考えているように思える。人口受粉による品種改良だと、何百という遺伝子がランダムに交じり合うことになるので、組み込む遺伝子が少なく特定されている遺伝子組み換えのほうが安全という理屈だ。但し、科学者や開発企業に相当なモラルがあっての話になる。会社の利益のために安全基準を大幅に下回る構造設計をして平気でいるような企業の元で開発されるとなれば話は全く別になる。
 決して科学や技術は悪ではない。科学や技術は人間の進化のひとつの局面である。ただ、急速な科学技術の進歩に人間のこころが追いついていけないというもうひとつの局面を忘れてはいけない。
 昔はよかったなどというつもりはない。確かに判断しなければならない事柄が少なかった時代は、ありきたりのモラルや倫理で解決できた。が、科学技術が急速に進歩し、情報が氾濫し錯綜する時代にあっては、そう簡単なことではない。人類がもうひとつ進化のレベルを上げるためには、こころの進化を待たなければならないような気がしている。

 

アルク

 

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