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ファンタージェン「秘密の図書館」 

 

 カール・コンラート・コレアンダーという名前を聞いてピンとくる人はかなりのファンタジーファンではないでしょうか?そうです、「はてしない物語」に登場する古本屋の主人です。なんとラルフ・イーザウの最新作「秘密の図書館」の主人公がなんと彼なのです。
 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」が出版されたのが1979年(日本では1982年)ですから30年近く経過しているのですが、この「秘密の図書館」は「はてしない物語」の前段になる物語になっているのです。簡単に言ってしまえばバスチャンをファンタージェンでの冒険に導いた「はてしない物語」という本をコレアンダー氏が発見する冒険物語ということになるのでしょう。ファンタージェンや幼ごころの君は勿論、グモルクやサイーデといった悪の化身たちも登場して、物語としての整合性はきちんとしています。
 ラルフ・イーザウはミヒャエル・エンデに見出されてデビューしているだけあって、エンデの作品を知り尽くしているのは当然ですが、訳者あとがきによれば「『はてしない物語』へのオマージュともいえるこのシリーズには、すでにドイツのファンタジー作家、ミステリー作家、歴史小説家など六人の作家がかかわり、将来的には世界各地の作家に参加を呼びかける計画らしい」というのです。
 65歳でエンデが亡くなってから20年以上の歳月を経て、エンデの子供たちがエンデの志を継ぎ、ファンタージェンを21世紀の今再現しようとしてくれているようです。エンデの志と書いたのは、エンデ自身「自分の作品が、読者のなかでさまざまな色に輝きはじめること」を大切にしていました。それはエンデが「芸術というものは、何かある決まったことを押し付けるべきではなく、鑑賞者や読者を、想像という遊びへといざなうものでなくてはならない」と考えていたからです。
こうした彼の考え方は幼い頃のイタリアでの体験に基づいているようです。20世紀の初めにはイタリアにはまだメルヘンの語り部いたらしく、幼いエンデがある語り部に、どこから物語を持ってきたのかと聞いたところ、語り部は「おじいさんから形見分けにもらったアレクサンドル・デュマだよ。その本しか読んだことがないんだ」と答えたというのです。このたった1冊の本から、この語り部は自分の着想をふくらませていったことを知り、エンデは「こう書かなければならない」と思ったそうです。
 アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas, 1802年7月24日 - 1870年12月5日)は、フランスの小説家で、モンテ・クリスト伯(邦題:巌窟王)』、『三銃士』に始まる『ダルタニャン物語』が有名ですが、わずか100年足らずの間に世界はあまりにも変わり過ぎてしまったようです。今の子供たちはハリー・ポッターは知っていても「巌窟王」や「三銃士」なんてきっと知らないと思います。
 図書館に行けば「モンテ・クリスト伯」や「三銃士」は必ず書棚に並んでいます。日本でも戦後の出版ブームで本が巷にあふれ出し、図書館の本の数も膨大なものになっています。目当ての本を探すのにコンピュータが必要なほどなのですから・・・
 

 「秘密の図書館」の時代設定は1937年ということになっています。当時のドイツはヒットラー率いるナチスの統制下で頻繁に『焚書』が行われていました。『焚書』とは思想統制のために本を焼き捨てることです。「はてしない物語」では『虚無』に飲み込まれてファンタージェンが消えていくのですが、この「秘密の図書館」では書架から本が消え、『虚無』の隙間ができるところから物語が始まって行くのです。
 子供の活字離れが叫ばれて久しいのですが、問題は子供たちが活字に興味を示せなくなった原因にあるような気がしています。それは子供たちの想像力の質が変わったためだと考えています。大人たちがせっせと築き上げた物質社会の中で、彼らは形のないもの、つまり目に見えないものに対する興味をなくしてしまったのではないかと思うことがあります。その大きな原因のひとつが映像です。その代表がTVや映画です。
 1985年に「ネバーエンディング・ストーリー」という映画が公開され、ジョルジョ・モロダーの音楽と共に大ヒットしたことは知らない人はいないと思います。この映画の原作が「はてしない物語」なのです。監督はUボートのウォルフガング・ペーターゼンでSFXを駆使した名作で、私自身学習塾時代に英語教材として生徒たちに薦めたほどでした。が、原作者のエンデが「原作の前半だけを映画にしても意味がない」という理由で裁判を起こしたように、作者にとっては辛い映画になってしまったようです。彼の希望通りディズニーが配給元で、監督が黒澤明で、役者はドイツ人で、幼ごころの君は日本の和服少女で、ファルコンは中国の龍だっとしたら一体どんな映画になっていたでしょう。
 「はてしのない物語」のテーマが一度現実の世界からファンタージェンという架空の世界へ入り込んだバスチャン少年が艱難辛苦の結果、成長して現実の世界へ戻ってくることにあったのですから、「ファンタージェンを破壊するために悪の人狼が脚本を書き、映画にした」と原作者が怒りをあらわにしたのも当然でしょう。

 

 後にエンデは「本と映画」の中で「本は思考と感情にかなった、創造的な読み手の共同作業を必要とします。それに対して映画は見る側に、自分のイマジネーションのための空間を少しも与えないのです。そればかりか、よりひどいことには、映画はしばしば過度の視覚的かつ音響的な指示によって、見る側がもたらすイメージを撲殺してしまうのです」と主張しています。「見る側がもたらすイメージを撲殺してしまう」かどうかは別にして、映像が人間の「イマジネーションのための空間」を限定してしまうことは確かだと思います。
 これは人間の脳が映像には反応しないためのようで、日本小児科学会などでも「TVの長時間視聴は乳幼児の脳の発達を遅らせる」と警告を発しているほどなのです。科学的なことはよく分かりませんが、映画を見た後で小説を読むと登場人物の顔が全て映画の訳者の顔になってしまうことは誰でも経験をしていることだと思います。これは明らかにイメージの画一化なので、映画を通して「自分のイマジネーションのための空間」を広げ、自分自身の物語をつむぎ出すことは困難になることは確かでしょう。
 今の子供たちはまさにそんな環境に育っているということを私たち大人は考えてあげなければならないのではないでしょうか?押し付けられる読書ほどつまらないものはありません。学校の教科書を読んで読書好きになる人なんかいないのです。映画よりも原作のほうが面白いと感じれば、黙っていても子供たちは本を選ぶようになるはずです。想像という翼を広げて、高く高く飛翔できる喜びを子供たちに伝えてあげることこそ私たち大人の大切な役割ではないでしょうか?
 「蛇にピアス」で130回の芥川賞を受賞した金原ひとみが受賞後に書いていたことを思い出します。登校拒否で学校に通わなくなった娘の下を訪ねると、父は必ず数冊の本を黙って置いていったというのです。その父は今任期沸騰の痛快ファンタジー「バーティミアス」シリーズの翻訳者法政大学教授金原瑞人氏のようです。

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