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手 紙
 東野圭吾の『手紙』という小説は私たちに「人間の弱さ」というナイフの切っ先を突きつけてくる。主人公の武島直貴は兄の剛志が強盗殺人犯であることから周囲から差別や逆差別を受け続ける。直貴はやっと見つけた音楽という希望を失い、最愛の恋人を失い、仕事までも失う。兄が強盗殺人犯であるという理由で……
 大学の通信過程から一般過程へと編入を果たし、苦学の末無事卒業までこぎつけたが、就職口が決まらない。日本では両親がいないことに加えて兄が強盗殺人犯では確かに就職が難しいことは確かである。しかし、その現実を事実として受け入れるだけでいいのだろうか?
 兄はアメリカで音楽をやっていると面接で嘘をつき、なんとか家電量販店に就職が決まるものの、社内で起きた盗難事件をきっかけに兄の経歴が会社に知られてしまう。直貴はパソコン売り場で優秀な成績を残しながら、倉庫勤務に配置転換を申し渡されることになる。そこに社長が姿を見せ、「差別は当然なんだよ」と言われる。「犯罪者はそのことも覚悟しなきゃならんのだよ。自分が刑務所に入れば済むという問題じゃない。罰を受けるのが自分だけではないということを認識しなきゃならんのだ」「君が今受けている苦難もひっくるめて、君のお兄さんが犯した罪の罰なんだ」という社長の言葉は正論ではある。
 しかし「大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身をおきたいものだ。犯罪者、特に強盗殺人などという凶悪犯罪を犯した人間とは、間接的せよ関わり合いにはなりたくないものだ。ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらないからね。犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ。自己防衛本能とでもいえばいいかな」だから「君に対してどう接すればいいのか、皆が困ったのだよ。本当は関わり合いになりたくはない。しかし露骨にそれを態度に示すのは道徳に反することだと思っている。だから必要以上に気を遣って接することになる。逆差別という言葉があるが、まさにそれだ」従って「人事部の処置が間違っていないといったのは、そういう状況を踏まえてのことだよ。差別にしろ逆差別にしろ、他の従業員が仕事以外のことで神経を使わねばならないようでは、お客さんに対して正常なサービスなどできないからね。そして差別や逆差別といったものがなくならない以上、君を別の場所に移すしかない。そういったことによる悪影響がなるべく出ない職場にだ」という言葉まで正論と感じてしまうとすれば、それは私たちの「弱さ」以外のなにものでもないのではなかろうか。
 養老猛氏がよく「脳化社会」という言葉を使っているが、こうしたことがまさに「脳化社会」の弊害である。実際に刃物を突きつけられているわけでも脅迫を受けているわけでもないのに、人間の「脳」が勝手に「ちょっとした関係から、おかしなことに巻き込まれないともかぎらない」という妄想を働かせる結果である。情報化社会の中に育ち、毎日のように凶悪な犯罪が報じられる状況ではそれもなむなしという考え方もあろう。昔なら知らずに済んだことも今では勝手に目や耳を通してどんどん飛び込んでくる。しかし、そうした社会に生きている以上、私たちはそれを克服し、正しい生き方を後世に残す努力をしなければならないのではないだろうか。
 仮に学校や近所に殺人犯の兄弟や親がいる子供がいたとして、教師や親は同じことを言うだろうか?もし、この社長と同じことを言う教師がいたら、それは教師失格である。親もまた同様である。親や教師は子供たちに差別や逆差別が存在することを教え、その上で何とかこうした悲劇をなくす努力をすることを教えるべきである。少なくともそうした問題を子供たちに考えさせるように指導するのが親や教師の役割であるはずである。本音も建前もなく、子供たちに問題提起をして考えさせることが大切なのではなかろうか。子供のしたことに親としての責任は生じても、親兄弟のしたことに子供は何の責任もない。罪のない人間を差別することは決して許されることではない。これもまた事実ではないか。それが逆差別であったとしても。
 「大人とは不思議な生き物だ。ある時は差別なんかいけないといい、ある時は巧妙に差別を推奨する。その自己矛盾をどのようにして消化していくのか。そんな大人に自分もなっていくのだろうかと直貴は思った」とあるように、私たちがこうした社会矛盾を矛盾と感じなくなってしまったとすれば悲しいことである。こうした大人たちの下で育つ子供たちはさらに不幸である。子供は大人の行動を見て育つ。悪しき手本がそこにあれば子供も悪しき方に流れてしまうのは当然だろう。学校における「いじめ」問題も一種の差別原理から生じている。子供が大人の真似をして、大人の社会性を子供の世界に持ち込んでしまっているような気がしてならないからである。大人の社会では当たり前になっている派閥や学閥といった差別や弱肉強食という自然の摂理が子供の世界に入り込むと、精神的に未発達な子供たちはいとも簡単に死を選んだり相手を傷つけることになる。差別はいけないことだと胸を張って主張できる親や教師が少なくなっているのだろう。
『手紙』に書かれた社長の言葉を読んで「当然」だと思う人も少なくないはずだ。会社を首にせず配置転換で済ませた社長を立派な人物だと感じる人もいるだろう。正しいことではないが会社の経営者としては止む終えない行為だったと感じる人もいるだろう。では、この社長は間違っていると言い切れる人はどのくらいいるだろう?学校の教科書にこの小説が掲載され、子供たちにこの社長の行為についてどう思うかと問いかけたら、子供たちはどう答えるだろう?直貴にたまたま強さがあったから、また彼を支える由美子という存在があったからこそ彼は苦難の道を生きることを選択できたのである。これが精神的に未発達な子供や精神的な脆さを持つ大人が、この社長の言葉を聞けば世間を恨んで自殺することだって充分に考えられるのだ。
 だから私はこの社長の言葉は間違っていると思いたい。思いたいと書いたのは間違っていると言い切る自信がまだないからであるが、同時に間違っていると思わなければ人間にはこれ以上成長が見込めないと感じるからでもある。私たち人類は長い長い進化の過程で知能と引き替えに牙も鋭い爪も失ってしまった。その一方で人間は一瞬で数万・数十万という同胞を殺傷する兵器を作り出した。そのため人間は想像上の脅威を実際の脅威のように感じるようになった。しかし、人間はまた苦難の歴史の中で様々な差別と戦い、それを克服してきてもいる。少なくとも士農工商といった身分差別や思想弾圧はなくなった。部落問題もほぼ解決した。確かにまだまだ解消されない差別があることも事実であるが、私たちが諦めない限り差別は減少し続けるはずである。
 それでも実際には戦争がなくならないのと同様に差別もなくなりはしないと考えている人々の方が多いのかもしれない。しかし、それでは人間の進歩はないことになってしまう。国境があり宗教がある以上、戦争を失くすことは難しい。それは現状では事実である。だからといってこの事実を素直に受け入れ、諦めってしまっては人類の進歩は科学技術の分野に限られることになってしまう。人が作り出した科学技術に人々が隷属する世界になってしまう。同じ技術でも使い方で善にもなれば悪にもなることは周知の事実である。原子力は画期的なエネルギーであるが、恐ろしい爆弾にもなるし、農薬は農作物の大量生産を可能にしたが、爆薬や生物兵器に姿を変えることもある。麻薬は医療用の鎮痛剤にもなるが常用すれば中毒者となり死に到る。
 どこかで「NO」と言わなければならない時が必ず来る。誰かが「NO」と言ってくれるだろうでは何も変わらないのである。みんなで声を合わせて「NO」と言わなければ何も変わらないのである。差別は正しいことかと問われれば誰もが「NO」と答えるだろう。頭の中では誰もが差別はいけないことだと分かっているのだから。ではなぜこのような差別がなくならないのか?それこそが私たちの「弱さ」なのだ。頭では分かっていることが実践できないという「弱さ」である。脳と肉体の乖離が進行している証左である。