アガサ・クリスティ(3)

 

 後の『アクロイド殺し』でも「エルキュール・ポワロが隠退して、かぼちゃ作りなどにこんなところへこなければよかったのに、それだけがはなはだ残念である」と犯人に言わしめているように、たまたま事件のある場所にポワロが居合わせるという設定がクリスティ作品には多いように思われし、クリスティーはこうした登場人物の集め方に不自然さがなく非常に巧みでもある。そしてこの『スタイルズ荘の怪事件』がポワロ初登場の作品となる。
 個人的な嗜好として私はアガサ・クリスティの作品をあまり好まない。元来が女流作家が苦手ということもあるが、ヴァン・ダインやエラリー・クイーンに比べクリスティ女史の作品には彼女独特の恋愛感情が作品のあちらこちらに点在し、純粋な推理の腰を折りかねない印象があるからである。「エルキュール・ポアロではなくて誰が、こんなことをやってのける男がいるでしょう!そして、それを咎めるというのは、あなたの間違いですよ。一人の男と一人の女の間の幸福は、この世の中での最大のことですよ」などと名探偵ポワロに言わせるのである。

 ヴァン・ダインのように「物語に恋愛的な興味を添えてはならない」などと野暮を言うつもりはない。ミステリィにロマンスが不可欠な要素のなっていることも知っている。エラリー・クイーンの作品にもロマンスは少なからず存在しているのである。しかし、男女の恋愛関係が殺人の動機になっているのならいざしらず、殺人事件とは全く無関係な男女関係の描写は「犯罪の記録と推理では重要な地位を占めていない」のであるから、いたずらに読者を翻弄するばかりである。『スタイルズ荘の怪事件』では、何組ものカップルの微妙な恋愛心理が描かれていて、そのいくつかは相手をかばう行為につながりもするが、単なる恋の鞘当的な関係も含まれており、事件との関連性の見極めが難しい作品である。『スタイルズ荘の怪事件』の根幹にアルフレッド・イングルソープとイヴリン・ハワードとの関係があるのだが、この関係が最後の最後、つまりポワロが犯人を名指しするまで憎悪だけで埋め尽くされている。これが読者のミステリィディレクションを誘う仕掛けになっているのだが…あまりにもあからさまな憎悪は逆効果であることをクリスティが知らなかったはずはあるまい。衒学趣味のヴァン・ダインよりも、恋愛趣味のクリスティの方が女性ファンが圧倒的に多いのだろうし、だからこそギネスブックにも載るほどのベストセラー作家なのだけれど…
 江戸川乱歩は「ヴァン・ダインや初期のクイーン流儀の、小説の半分ぐらいまでは関係者一人一人の訊問に費やされる、あの退屈の代わりに、メロドラマが入ってきたのである。しかし、そのメロドラマは犯罪に関係を持っているのだし、クリスティーほどにうまく書いてくれれば、私などには、個別訊問の単調さよりは、この方が面白く感じられる」と述べているが、まあ、これはあくまでも個人的な嗜好の問題のようである。
  だから、私はアガサ・クリスティの小説はあまり読んでいない。『アクロイド殺し』と『ABC殺人事件』そして今回初めて読んだ『スタイルズ荘の怪事件』の3作のみである。『アクロイド殺し』は叙述トリックの原点ともいうべき作品であり、アガサ・クリスティの野心作でもある。ポワロを隠退させ、ワトソン役のヘイスティングスをアルゼンチンに追いやり、第三者の三人称の視点で探偵小説を完成させた、女史の作品の中で最も重要な作品である。イギリスのTV局が製作した2時間もののドラマも見たが、叙述トリック作品を映画やドラマにするのは不可能に近いはずである。『アクロイド殺し』の醍醐味は「誰がアクロイドを殺したか?」にあるのではなく、探偵小説を第三者の手記として描いて見せたミスディレクションにこそあるのである。
 発表当時は「アンフェア」という謗りを受けた『アクロイド殺し』だが、日本でも綾辻行人を初めとする第三の波の新人たちに多用された「叙述トリック」は「密室トリック」と並ぶほど本格探偵小説ではあたりまえになっている。しかし、作品の質という面から言わせてもらえばポワロの直観が前面に出すぎているために、後のポワロの説明を読んでも不自然さが否めない部分も多い。例えば、フロラ・アクロイドは殺されたアクロイド氏の書斎には入っていないことを証明するために、その直近に彼女はアクロイド氏の私室に通じる階段にいたであろうことは納得ができても、どうしてアクロイド氏の私室から40ポンドを盗んだことの証明になるのか?何故100ポンドの中から半端な40ポンドだけを盗んだのか?等々合理的な解釈のつかない箇所が散見されるのである。
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