アガサ・クリスティ(2)

 

 作家中村真一郎氏も『深夜の散歩』の中でアガサ・クリスティに触れ、「彼女の作品は、出来不出来はあるが、いずれも面白い。そうして、その面白さというのは、よく書けている小説の面白さである。(中略)「よく書けている」というのは、どういうことか。それはイギリスの田舎の生活の情景が、生き生きと書けている、ということで、つまり、ジェーン・オースチンの小説が、時代こそ違え、やはりイギリスの田舎の生活を、きめ細かい肌触りで、見事に描き出しているのと同じである。要するに僕にとっては、クリスティーはオースチンのように面白いということになる」と評している。加えて「我が近代文学の歴史では、真面目な純文学の読者は、主として、倫理派であり、読者代表たる批評家も、だから、大概、作品を評価するのに、作者の思想いかんという方向からする。それはそれで結構だが、もう一方の、風俗的な方の小説に対する考え方が、普及していないものだから、我国の純文芸は、どうも堅苦しく体あたりに過ぎる方へ傾いてしまう傾きがある」のに対し「英国の小説は、我国の小説とは逆に、今、あげた二つの極という見方からすれば、風俗的な面が強く、クリスティー女史のような祭神が現れるのも、伝統的に当然なのである」と述べている。「現代の日本の作家で(あえて探偵小説に限定しないが)、ちっとも日本を知らない欧米人に、そのある部分の生活に立ちあっているような幻影を見せるだけの達人が一体、何人いるか」と問うている。
 「進歩と向上を信じた、固有の顔立ちをもつ『人間の時代』の人々は、機関銃で掃射され毒ガスで窒息し、無意味で無個性的な大量死をとげた。世界戦争を目撃した十九世紀最後の世代は、二〇世紀最初の世代に転化する。惨憺たる世界戦争の経験が、平凡な文学少女(アガサ・クリスティー)に先進的な変貌を強制した。二〇世紀を代表する探偵小説作家が、このようにして誕生するだろう」と笠井繁が『探偵小説論U「世界戦争の小説形式」』と述べている一方で、母国イギリスのエドマンド・クリスピンはH・R・F・キーティングのインタビューに答えて「クリスティーの本を手にくつろいだ読者は、一、二時間のあいだ、人生の正真正銘の醜悪さを忘れて、たとえどんなに多くの殺人が起ころうと、本質的には理想郷である世界に浸ることができると、とわかるのです」と述べているように、風俗的傾向が強い作品になじんでいるイギリス人にとっては、ロシアやフランス文学の影響を色濃く受けた日本人ほどクリスティの作品をことさら堅苦しく本格探偵小説枠の中に閉じ込めようとは考えていないようである。
 『スタイルズ荘の怪事件』の冒頭部分でジョンの妻メアリーとヘイスティングスとの興味深い会話がある。「こっそり道楽がおありじゃないんですの?」というメアリーの問いに、ヘイスティングスは「そうですね。わたしは、探偵になりたいという、ひそかな望みを持ちつづけているんです!」と答えている。「まあ、ほんとう――スコットランド・ヤードですの?それともシャーロック・ホームズ?」という問いに対しては、「そりゃ、むろん、シャーロック・ホームズですよ」と即答している。これはクリスティ女史の探偵小説への強い嗜好が感じられて興味深かった。
 この二人の会話の中でヘイスティングスは「いつか、ベルギーで一人の男に会ったことがあるんですが、非常に有名な探偵でしてね、すっかり熱中させられてしまったんです。かれは驚くべき小男でした。かれは口癖のように、立派な探偵の働きというものは、単なる理論的な方法の問題だといっていました。わたしの組織的な方法は、けれの方法を基礎にして――といっても、もちろんそれよりもずっと進んでしまったんです。かれは、奇妙な小男手、たいへんなおしゃれで、だが、すごく頭の良い男でしたよ」とポワロの紹介までしているのである。しかも、このスタイルズ・セント・メリー村にはポワロその人がベルギーから疎開してきているのである。
<BACK・NEXT・・>

 

    time