宮部作品の違和感

 

 
 数々の賞を総なめにした宮部みゆき作品を遅ればせながら読んでいる。読み始めは『魔術はささやく』。正直面白かったし、文章力といい作品の構成力といい、なるほどすごい作家だと感じた。ただ、最終章で守が吉武に「東京は今夜も霧ですね」と口にするシーン以降では何ともいえない違和感のようなものを感じてしまった。守がこの言葉を飲み込んでしまったとしても、この物語は完結していたはずだという違和感だった。読者の期待を裏切り、最後にもうひと山作ろうとするのはミステリー作家のサービス精神なのかもしれないが・・
 
 『魔術はささやく』にはある人物の復讐物語が側面にあり、主人公の守少年が復讐物語の謎にせまるという構造にありながら、この一言を口にすることでついには加害者の側にからめとられてしまっている。結局は崖っぷちで思いとどまり「僕にはできなかった。親父を殺したやつなのに、僕にはでいなかった。殺せないよ。あんたにはわかるかい?僕にはできなかった。笑っちゃうよ」ということにはなっているが、復讐魔の助言に従って、吉武に自首をさせる暗示を実行するキーワードも利用している。

 この小説のテーマを人のこころを操ることの恐ろしさや怖さとして読んでいた者としては、その力を殺人に使おうと、自首させることに使おうと、人のこころを自分本位に操っていることに違いはないと感じてしまう。人のこころを操ることが罪だと定義すれば、殺人者の魔術師も守少年も同じ側の人間と定義されてしまうのではないだろうか?

 力があればそれを使ってしまうのが人間の弱さなのかもしれない。『龍は眠る』という宮部作品はまさにそれをテーマにしているということを考えると、『魔術はささやく』のラストは意図的に書かれていると考えるべきだと思う。説得ではなく暗示キーワードを使って自首させた作者の意図を測りかねている。

 善悪を論じるつもりはないが、ミステリーには犯罪がつきものである以上、どうしても犯罪者にスポットが当たることになる。犯罪者が社会的弱者である場合は犯罪者に同情や共感を覚えることも当然でてくるだろう。ただ、常人が持たない特殊な能力をもった者を社会的弱者と定義することは難しいのではないだろうか?魔術や超能力が銃ほどに身近になれば別かもしれないが・・『魔術はささやく』では守少年は魔術師から与えられた暗示キーワードをあたかも拾った銃のように利用している。銃で人を殺すのと銃を突きつけて自首させることとの隔たりは確かに大きい。ただ、人にものごとを強制するという点では同じと考えることができるのではないだろうか?

 ありきたりでない作品。それが宮部みゆきの魅力なのかもしれないが、『魔術はささやく』のエンディングはどうもしっくりこなかった。直木賞を受賞した『理由』で真犯人は一体何を考え、何を望んでいたのか?結局事件の真相は何だったのか?が解き明かされないまま本を閉じなければならなかったこと以上に・・・

 

    time

 

・ Hello ・