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役柄論 |
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| 「世界」性という点で類似するギリシア悲劇と探偵小説は、いわば「役柄」性においても構造的な共通項を産出する。オイディプスがそうであるように、物語の進行において「性格」が変化することのない、「近代悲劇」あるいは近代小説的なキャラクターとは根本的に異質である人物が、探偵小説の主要なキャラクターをなしている。いうまでもないだろうが、それは第一に犯人、第二に被害者、そして第三に探偵の三者である。以上の三者は、かならずしも人格的に分割されることを意味しない。オイディプス神話において見られたように、探偵が童子に犯人であることも可能である。しかし、ひとつの人格に二つないし三つのキャラクターが同居しうるとしても、探偵小説的な役柄としての、犯人、被害者、探偵の三肢的構造性は揺るぎない。(P35) 近代小説としては不自然なまでに硬直した三肢構造のリゴリズムを前提として、「探偵=犯人」や「探偵=犯人=被害者」という発想が奇抜なトリックとして構想されうる。「探偵=犯人」トリックは、エドガー・アラン・ポオの「おまえが犯人だ」にすでに見られる。 江戸川乱歩は、「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれ行く経路の面白さを主眼とする文学である」(「探偵小説の定義と類別」)と述べている。この定義から、探偵小説の世界を構成する二つの極が必然的に析出されるだろう。第一は「主として犯罪に関する難解な秘密」であり、第二はそれが「論理的に、徐々に解かれて行く経路」である。「謎」および「論理的解明」の二項として要約することができる。(P36-37) 探偵小説は心理描写において致命的な欠陥をもつという批判を、近代小説の原理を先験化した作家や批評家から、探偵小説は繰り返し浴びせられてきた。こうした批判が無根拠であることは必ずしもいえない。古典的な探偵小説では、犯人という主要キャラクターの内面描写が原理的に禁じられている。すでに死んでいる被害者も同様だ。さらに主人公である探偵の内面さえ、最後の謎解き効果を計算するなら、できるだけ描かないほうが無難なのだ。(P40-41) ところで探偵小説における「犯人―被害者―探偵」の図式は、それ自体として「作者―作品―読者」の図式に重なり合う。被害者の屍体に象徴される謎=事件とは、作者=犯人が想像した一箇の「作品」にほかならない。作者=探偵は、それを正確に「読む」ことにおいて作者=犯人の実像に迫る。ようするに、探偵小説を「読む」という行為は、あらゆる言葉を「読む」経験の特異な変奏である。 「読む」行為の意味をそれ自体として方法的に内化した小説形式は、おそらく探偵小説だけだろう。明らかに探偵小説は近代小説のメタレヴェルにずれ込んでいる。あるいは近代小説の批評的な自意識として、探偵小説形式を捉え返すこともかのうだろう。犯人、被害者、探偵という探偵小説の主要キャラクターが、あらかじめ内面性を剥奪されている事実は、たんに「語り」の都合に由来しているのではない。(P41-42) 「語り」の人称問題は探偵小説形式において本質的な意味をもつ。登場人物の内面にたいして透過的な、近代小説的な三人称視点で探偵小説を書くことはきわめて困難である。物語の進行過程で犯人の内面、探偵の内面を記述してしまえば、「謎―論理的解明」を骨子とする探偵小説は危機に陥る。最後の謎解きに収斂されるよう、探偵小説は周到に構成されなければならない。 である以上、作者は一人称を選択することが妥当である。犯人および探偵の一人称は回避されなければならないから、一人称の視点人物としてワトスン役が要請される。(P43) 当然のことながら、擬似三人称に近代小説的な客観性や普遍性は保証されない。ようするに、バルザック的な神の視点はではありえない。一人称と三人称で截然と区分された近代小説の世界は、このようにヴァン・ダイン作品においてなにか異様なものに変貌している。ヴァン・ダイン作品は探偵小説の世界では唯一、小説構造の上で内面を描くことが可能なキャラクターであるワトスン役でさえ採取的には犯人や被害者や探偵の同型的に空虚きわまりない、人格的実質を剥奪された存在でしかないことを説得的に示している。 近代小説は内面に無限を宿した個人を描こうとする。しかし近代小説の異化である探偵小説形式は、近代的な人間の理念を冷酷に相対化してしまう。探偵小説の世界に「人間」のでる幕はない。探偵小説は一方で、近代以前の物語や芸能と形式的な共通性をもつ。他方では近代以後、近代小説以後という時代意識を方法的に内化してもいる。プレモダンとポストモダンのウロボロス的な円環性から、探偵小説という奇妙な小説形式は生じたのだ。(P44) 笠井繁『探偵小説の構造』より。 |
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