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黒いトランク(1) 鮎川哲也(あゆかわてつや) |
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| 鮎川哲也という作家をご存知だろうか?ミステリィ・ファンならいざしらず、一般の読者には『砂の器』は知っていても、『黒いトランク』を知らない方の方が多いのではなかろうか。共にF・W・クロフツの影響を受けた時刻表トリックを題材として、偽装アリバイ崩しを主眼とした推理小説であり、刊行年代が鮎川哲也の方が先であるにも関わらず、松本清張はその後社会派推理小説の旗手として注目を集めたのに対し、鮎川哲也は優れた作品を発表しながら、当時、本格推理小説の最後の新人として、社会派の盛大なムーヴメントの陰にかくれてしまった。 60年代に隆盛を極めた社会派推理小説も70年代には単なる社会小説と堕し、その勢いを失い、時刻表トリックや偽装アリバイ崩しというコードだけが80年代のトラベル・ミステリィに引き継がれていった。 1953年に発表された江戸川乱歩の『類別トリック集成』によると、「私が採集したトリックの例は総計で、八二一であるが、そのうち『一人二役』型のトリックは、一三〇例に及び、最高の頻度を示している。これにつぐものは『密室』トリックの八三例だ」と述べている。「クロフツは、汽車や自動車の巧みな利用によって、きわどい時間アリバイを作る名手である」としながらも、「乗物による時間トリックは九例が指摘されているに過ぎない」と指摘している。鮎川哲也の『ペトロフ事件』が発表されたのは1950年であるから、日本における「乗物による時間トリック」、特に「時刻表トリック」を最初に作品化したのは、まぎれもなく鮎川哲也そのひとであったといえる。 80年代のトラベル・ミステリィは社会派の流れを汲み、松本清張の『点と線』を起源とすると理解されているようであるが、『点と線』にはトラベル・ミステリィに多用された時刻表の掲載がない(都筑道夫氏によれば、文庫化されるまでは時刻表の記載はあったらしい)。無論、「乗物による時間トリック」の考案者であるクロフツにしても然りである。推理小説に列車の時刻表をいち早く掲載したのは鮎川哲也の『ペトロフ事件』なのである。 |
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| 『ペトロフ事件』は鮎川氏自身も「この『ペトロフ事件』はあらゆる面で稚拙であって、習作以外の何者でもなく、『ペトロフ』を読みましたなどといわれる度に、作者たる私は赤面しなくてはならなかった」と懐述しているように、彼にとっての習作であることには違いない。しかし、氏の時刻表に対する拘りは驚くべきものがある。同じ一九七五・七版立風書房『鮎川哲也長編推理小説全集 第一巻』の中で、「その頃の私は肋膜炎の余後を養っていたので、退屈をまぎらすために『ポンスン事件』を再度手にとって、じっくりと腰をすえて読み進んでいった。中程で容疑者の青年が北部イングランドへ馬を見にいったというアリバイを持ち出す個所がでてくるが、物語を呑み込みやすくするために、自分で鉄道の時刻表をつくってみた。キングズ・クロス駅発のモントローズ行きは何時何分で、ダンディー行きは何時何分、グランサム駅に停車するのがいつ……といったものである。こうした熟読のせいで『ポンスン事件』の読後感はなかなかよかった。そこで勢いに乗じて『樽』にとりかかり、メモをとりながら読んでいくうちにアリバイ物の面白さがわかるようになって、やがてその虜になってしまった」という個所にそれが読みとれる。 ところが、鮎川哲也氏は当初「私には、当時正統派と呼ばれていた名探偵が登場する謎解き論理小説のほうが面白く、クロフツは嫌いな作家の一人であったからだ。森下雨村氏訳の『樽』にしてもいたずらに頭が混乱するばかりで、世評のたかい理由を理解できすにいた」というのだから驚きである。 |
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| 鮎川氏が『ペトロフ事件』の発想を得たのは昭和18年(1943年)頃のことだという。一時日本の高校へ進学したものの、肋膜炎を患い、その養生のために満州に戻っていた頃のことである。昭和43年といえば、日本は太平洋戦争の最中にあり、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされ、学徒出陣が始まった時代であった。肺病のために学徒出陣を免れた作家は少なくないが、鮎川氏のように当時満州にいたという作家は決して多くはない。したがって、『ペトロフ事件』に描かれる当時の満州の情景には大変興味深いものがある。 満州事変が昭和6年(1931年)、溥儀を皇帝にたて傀儡国家満州国を宣言したのが、翌昭和7年(1932年)のことである。鮎川哲也の父親は満鉄の技師であり、氏自身も幼い頃に満州に渡り、満州で育っている。『ペトロフ事件』には氏自身の眼で見た満州の状況が見事に表現されている。特に興味を引くのは『ペトロフ事件』考案時の満州に太平洋戦争の悲惨な陰が見られないことである。『ペトロフ事件』の中でも「血なま臭い風が、鬼貫の鼻をかすめて去った。残酷な戦争の哀れな犠牲者達の血の臭いだ。「警部、嫌ですねえ戦争は」鬼貫が想っていることをアレクサンドルがいった。旅順はどちらを向いても血の匂いがするのだが、とりわけこの辺りはひどい。この道の下にも、だれかの骨が埋まっているに違いないのだ。来る日も来る日も人に踏まれ、馬の蹄に叩かれて、顧みる者もいない」という戦争批判の言動が見られるが、これは日露戦争のことである。日本国内では当然このような戦争批判が認められる時代ではなかったはずであり、探偵小説作家たちも、国家統制の下に作品の発表を禁止されていた時代でもある。 笠井潔氏が『模倣における逸脱』の中で「本国では探偵小説が禁じられていた一九三〇年代の後半でも、たぶん植民地の満州は、情報局の言論統制の枠外にあった。「文明」としての植民地である「進んだ満州」の空気を呼吸して育った青年は、横溝正史の捕物帖や木々高太郎の科学小説を読んで、二〇世紀文学である探偵小説から後退したものと感じたに違いない。それなら、自分で書いてやろうと考えたとしても、少しの不思議もない」と述べているが、「情報局の言論統制の枠外」にあり比較的自由闊達に振舞うことのできた満州という環境で育ったからこそ、鮎川哲也の本格志向が育まれたといえるのかもしれない。 |
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