アガサ・クリスティ(4)

 

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 探偵の直観が悪いと言っているわけではない。それどころか私は名探偵には「直観というやつは、すばらしいものですよ」、「はっきりということも出来ないし、そうかといって、無視するわけにもいきませんね」といった直観は不可欠であるとさえ考えている。したがって、ポワロの直観のさえには魅了されるし、彼のキャラクターも大好きである。過去にNHKで放送されたドラマ「名探偵ポアロ」は全作見ているほどである。にもかかわらず、アガサ・クリスティの説明不足のために小説ではフラストレーションを感じてしまうのである。探偵小説の原点とされるポオの「モルグ街の殺人」にも名探偵デュパンが登場し、パレ・ロワイヤルでワトソン役の私の心理を見事に読んでみせるが、その種明かしは「万事はっきりと説明がゆくはずだ。まず君の瞑想の筋道を、ぼくが話しかけたときから問題の果物屋とぶつかったときまで、遡ってみようじゃないか。思考の鎖は、ごくおおまかに言えばこんな具合になる。――シャンティリー、オリオン座、ニコラス博士、エピクロス、ステレオトミー、通りの敷石、果物屋」とそれに続く会話の中で論理的に説明されているのである。ところがポワロときたらデビュー作の『スタイルズの怪事件』でさえ、ヘイスティングの心理を直観的に読み取りただニヤニヤと笑っているばかりなのである。ポワロが登場する作品やTVドラマや映画を見慣れた人ならともかく、この作品を始めて読む読者にとって不親切きわまりないといわざるをえない。作品の中でポワロとヘイスティングスは旧知の仲として描かれているが、初めてこの作品を読む読者にはヘイスティングスの性格が充分に把握しきれてはいないのである。 
 エラリー・クイーンは晩年の『十日間の不思議』の中で「わたしは非常に感服しながらも、あんたの方法には――世間で賞賛する《クイーン式方法》というのには――ある一つのきわめて脆弱な点があると絶えず思っていました」そしてそれが「法的証拠です」とディードリッチ・ヴァン・ホーンに指摘される箇所がある。それに対しクイーンは「ぼくの自己弁護としては、ぼくはいつも、証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに任せることにしている、とだけいっておきましょう。ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼らを罰することではありません」と答えている。エラリー・クイーンの論証は微細にわたり精緻で論理的である。論証に穴がないのである。たとえ状況証拠の積み重ねであってもそれが論理的解明を意味するのなら、探偵の仕事はそれでいいのである。そして、それこそが本格探偵小説の醍醐味であり楽しみでもある。「法的証拠」をお望みならCSIのようなTVドラマを見ることをお勧めする。それは探偵の仕事ではなく、明らかに現場の捜査官の仕事なのだから。
 クロフツのように警官を探偵役と設定すれば、地道な捜査で物的証拠を積み重ねながら、犯人のアリバイを崩してゆくことも可能である。ヴァン・ダインやエラリー・クイーンの対極にF・W・クロフツの作品が対置されることになるのではないか。かたや捜査権限をもたない探偵、かたや捜査権限のある警官。それぞれがそれぞれに合理的な論証を積み重ね、読者とともに犯人を探したり、アリバイを崩す手段を思いめぐらせる。これこそが本格探偵小説の楽しみなのだ。
 ところがアガサ・クリスティの名探偵ポワロは元ベルギーの優秀な警察官であったことから、自ら物的証拠集めを始める。特に『スタイルズ荘の怪事件』では警察の到着前に現場に入り、証拠集めをしている。しかも、その内容はほとんど警察に知らされていないのである。まさにシャーロック・ホームズである。読者はポワロの収拾した証拠品は判っていても、その内容物は大変重要であるにも関わらず、最後になるまで読者には明かされない。『スタイルズ荘の怪事件』ではポワロが最初に集めたコーヒーの内容物が大きな決め手になっているのに、検視審問の際にすら明かされないのである。読者は最初にポワロがコーヒーを試験管に入れていたことは知っていて、その内容物の検査も薬局に依頼していることまでは知らされているが、その分析結果がほとんど最後になるまで明かされない。これではアンフェアといわれても仕方あるまい。

 『アクロイド殺し』では鵞鳥の羽と白い木綿の布の切れ端という物証が呈示されるが、鵞鳥の羽が麻薬の吸引に使われていたという知識がなければ、謎は解けないし、糊のきいていない白い木綿の布の切れ端がメイドの服装だということも当時の知識がなければ読者には結びつけられないはずである。こうした状況はドイルのシャーロック・ホームズにもよく見られることである。このあたりは大戦間の本格探偵小説というよりも十九世紀的な雰囲気が強く感じられる。デビュー当時のアガサ・クリスティは明らかにシャーロキアンであった。コリン・デクスターのデビュー作『ウッドストック行最終バス』の中にも「警察がやってきてからすでに一時間半以上もたっていたが、事件の成行きはホームズやポアロを読んだ彼女の予想とは合致しなかった。ホームズやポワロなら今ごろはかならず主要な容疑者たちに会って、まったく取るにたりない事実から驚くべき推論をしているにちがいなかった」といった<ブラック・プリンス>のホステスの言葉があるように、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロに馴れ親しんできたイギリスではこうしたことはあまり気にならなかったようである。世界に誇るスコットランド・ヤードのお膝元で、しかも時代は20世紀に入っているのにである。これは、先に引用した中村真一郎氏が指摘するように大衆文学が深く根を下ろしているイギリスならではのおおらかさに起因しているのかもしれない。彼等は本格探偵小説としてクリスティー作品を読んでいるわけではないのである。
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