アガサ・クリスティ(6)

 

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 かの鮎川哲也氏のエッセイにも「わたしは必ずしもクリスティーの熱心な読者ではなかった。戦前に読んだ『ABC殺人事件』を先頃再読しようとしたところ、興味索然として、三章から先に進むことができずに巻を閉じた。その程度の読者なのである」という記述がある。詳細なメモを取りながらクロフツの『樽』を読み返し、作者が苦心して案出したトリックなり構成なりを徹底的に解剖し、自作に活かした鮎川哲也氏にとって、アガサ・クリスティという作家はそこまでする興味の対象にはなりえなかったということなのだろう。鮎川氏に限らず、クロフツやエラリー・クイーンをこよなく愛する読者にとってアガサ・クリスティの作品は確かに「興味索然」としてしまう。それはクリスティの作品には冒頭から読者をぐいぐいと作中に引き込んでいく謎やトリックがないことがあげられるのかもしれない。同じ一見無差別殺人に見せる設定にしても『ABC殺人事件』とクイーンの『九尾の猫』を比較するとその違いが良く判る。『ABC殺人事件』ではアルファベット順に1件ずつ殺人が行われていくのに対し、『九尾の猫』では探偵クイーンが事件に関与する時にはすでに6件の無差別殺人が起きていて、冒頭から読者を異様な無差別殺人という大きな謎に引き込むことに成功しているのである。文庫版のページ数でいうと、『九尾の猫』で第6の殺人が起きるのは46ページであるのに対し、『ABC殺人事件』の同じページだと第一の殺人の現場検証をようやくポワロが始める第6章に当たる。鮎川氏が投げ出したという第3章はポワロへの予告状通りに事件が初めて起こる箇所である。
 『ABC殺人事件』はアルファベット順の地名の土地でアルファベット順の名前の人間が殺されるという興味深い設定になっている。しかも毎回実行の日付と地名が記された殺人予告状がポワロの元に届けられる。死体の側には犯行が同一者であることを示すABCという時刻表が残される。無差別殺人に隠された1件の意図のある殺人というテーマは面白かったが、結局、犯人逮捕に至る物的証拠はなにも示されないまま犯人は逮捕される。犯人が裁判で白を切り続ければ確実に無罪になるだろうという不自然さはどうしても拭いされなかった。意外な犯人を指摘するポワロの推理は論理的ではあるが、タイプライターに付着した指紋というポワロの嘘にあっさり犯行を認めてしまうというのは、ここまで知的な犯罪を計画した犯人像とは矛盾するといわざるを得ない。
 
 エラリイ・クイーンがヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』を改良して『Yの悲劇』を書いたことは有名だが、『九尾の猫』もある意味クリスティの『ABC殺人事件』の改良版といえるかもしれない。クイーンは連続殺人の中に真の殺人を隠すというありきたりのトリックは初めから放棄しているし、一見無差別と見えた連続殺人事件に隠された1本の糸を発見することに重点をおいている。被害者の身内を捜査に利用する箇所も『ABC殺人事件』を模しているようでありながら、『ABC殺人事件』よりもその目的が明確に示されている。最後の犯行で犯人が逮捕されるが、明らかに物証のそろっている人間が真犯人ではなかったというのも『ABC殺人事件』と同じである。しかし、犯行に使われた絹紬(絹で織られた紐)も被害者の名前が記されたカルテも物証として警察に発見されているところが、クリスティの作品とは大きな違いとなっている。
 「ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼らを罰することではありません」というエラリイ・クイーンの言葉は、「ぼくはいつも、証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに任せることにしている」という前提があるのであって、決して「法的根拠」が必要ないといっているのではない。しかし『ABC殺人事件』ではこの「法的根拠」が示されないまま小説が終わってしまうのである。これはどう考えても不自然としかいいようがない。都筑氏が言うように本当にイギリスには「野暮をいう読者がいない」のかもしれない。
 クイーンの巧さは、前例のあるテーマやトリックを巧みに借用しながら、前作の論理の矛盾や穴を見事に埋めてしまうところにあるように思う。『Yの悲劇』が『グリーン家殺人事件』の模倣と言われないのは、『Yの悲劇』が『グリーン家殺人事件』を作品として超えているからである。エラリイ・クイーンの後期の作品は前期の国名シリーズと比して評判は高くないようだが、個人的には『ABC殺人事件』より『九尾の猫』の方が作品として優れていると思うし、好きでもある。特に後期のクイーンはフロイトやユングといった精神分析や心理学をかなり研究していたようで、『九尾の猫』の中にもベラ・セリグマンという精神学者を登場させ、「昔はフロイト。今はユング、そしてベラ・セリグマンです。ユングと同様にあの老学者は健在です」とクイーンは父親のクイーン警視に説明する箇所がある。さらに、小説の終盤で最後の謎を解明するためにわざわざウイーンまでセリグマン教授に会いに出かけさえしているのである。
 『ABC殺人事件』でもトムスン博士という精神病医を登場させているが、「カストは――どうやら、母親のきまぐれから(そこに、エディプス・コンプレックスがあることは、疑いの余地はありません)――アレグザンダーおよびボナパルトという、二つの極端に誇大なクリスチャン・ネームの重圧を受けているのです」という博士の説明から推察しても、アガサ・クリスティがフロイトを本気で研究していたとは考えにくい。カストの記憶の欠落にしても、戦時中の怪我の影響としか記されていない。エラリイ・クイーンも『十日間の不思議』の中でハワードの記憶喪失を題材にしているが、クイーンはこの記憶喪失時の状況をより詳細に描ききっているのに比べるとあまりにお粗末な記述といわざるをえない。このようにアガサ・クリスティの作品には探せばきりがないほどにアラがみつかるのである。
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 にもかかわらずアガサ・クリスティが世界各国で愛され、ギネスブックで「史上最高のベストセラー作家」に認定されているのはなぜなのだろう?アガサ・クリスティを例にしてミステリィのベストセラー作家の条件を挙げるなら、文章の巧さとポワロやミス・メープルという魅力的な名探偵の造形は勿論だが、恋愛要素の散りばめ方の巧さとわかりやすさではないかと考えている。わかりやすいミステリィとは皮肉な表現だが、読者が謎解きをホームズやポワロに一任して、その論証の欠陥や矛盾に気が付かなければ、親切な解答・解説付きの問題集と同じである。ギネスブックで「史上最高のベストセラー作家」に認定されているクリスティはまさにそうした読み方をされた代表的な作家といえるのではなかろうか?
 とはいえ、クリスティーは一夜にしてベストセラー作家になったわけではない。『スタイルズ荘の怪事件』の初何度版はわずか2000部にすぎなかったらしい。出版初年でどうにか1万部売れたのは1935年の『三幕の殺人』が最初で、それが二万部に達したのは1943年の『五匹の子豚』だったといわれている。これは戦時中の世相では無理もないことであった。それ以後の彼女は後退することを知らず、アガサ・クリスティー現象は“売行き倍増事件”となってゆく。『忘られぬ死』(1945年)は12ヶ月で三万部売れ、翌年出版された『ホロー荘の殺人』は四万部に達した。50番目の作品である『予告殺人』が発行された1950年には、初版部数は五万部になっており、これ以後の彼女のミステリィ作品でこの数次を下回ったものはないそうである。これはあくまでハードカバーの初版部数であり、ペーパーバックの部数ではない。加えて、アガサ・クリスティーの文章の簡潔さとわかりやすさ、複雑な警察組織などの描写を避けたことから様々な言語に翻訳されることになったことも付け加えておかなければならないだろう。
 またクリスティは20世紀のメディアの発達にも助けられたベストセラー作家ともいえる。失踪事件を惹き起こしマスコミで大々的に取上げられたり、作品の多くが映画化やTV化されたことで一層読者を獲得することに拍車をかけたことは確かである(彼女の意図したことではなかったのだが)。現在でもこうした傾向は変わっていない。特に我国では、映画やTVドラマ化されないベストセラーは存在しずらい時代になっている。ベストセラーだから映画やTVドラマ化される場合もあるが、映画やテレビラマ化しやすい作品がベストセラーになることも少なくないのではなかろうか?最近は乱歩賞にまでメディア・スポンサーが付き、映像権でしばられている。以前TVドラマになった『逃亡のモノクローム』を見たが、乱歩賞の原作とはかけ離れた作品になっていた。個人的にはクリスティーの作品は小説よりTVドラマや映画で見るほうがいいようである。理由は論理の欠陥や矛盾が目立たないような演出が可能だからである。
 とはいえ、メロドラマチックなミステリィを楽しみたいという方なら、アガサ・クリスティはお勧めの作家であることは確かである。また、気楽にオースチン風の作品を楽しむという中村真一郎氏のような読み方もあることも確かである。なにもアガサ・クリスティーをクロフツやクイーンの作品を読むように読む必要はないのである。少なくとも日本のつまらないミステリィを読むのなら、古本屋の50円や100円市でクリスティーの作品を探すほうがよほど楽しいに違いない。
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