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虚無への供物(4) 中井英夫 |
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第二は「探偵」の、「黄司や玄次という人形に魂を吹きこ」んだ無自覚で放埓な物語の欲望。両者は読者=探偵の不可視の「犯罪」性として、作者=犯人の論理では結論的に一体化されることになる。洞爺丸の事故を社会的問題としてではなく、私たち人間個々(御見物衆)の問題として捉えなおそうと中井英夫は試みているのである。 |
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中井英夫が『虚無への供物』で、『嘔吐』のサルトルなど多数の模倣者を生んだプルーストの『失われた時を求めて』の結末を意識していることは、多数の論者に指摘される。結末で提示される作者の誕生と、これから書かれるだろう小説。しかも結末において予告される小説とは、それまで読者が読んできた小説でもある。 「この作品は、大衆の日常的頽廃を弾劾したハイデガーや三島由紀夫のような立場ではなく、平和と繁栄を謳歌し、無駄話と暇つぶしに溺れる「御見物衆」の立場から書かれている。あるいは「御見物衆」が、おのれの「真犯人性」の自覚にいたる物語として、『虚無への供物』は最初から最後まで周到に織り上げられている。読者=探偵として作品空間に乱入した久生や亜利夫は、最後に読者=探偵=犯人としての自分に目覚めるのだ。その上で、犯人である●●が橙二郎の屍体の作者である、あるいは事件全体を背後から操作していた牟礼田が「ザ・ヒヌマ・マーダー」の作者であるという水準を越えるところの、『虚無への供物』の真の「作者」が登場することになる。久生や亜利夫の肖像が、自画像にほかならないことを自覚してはじめて、中井英夫は『虚無への供物』の作者として誕生しえた」と笠井氏は評している。 また「『虚無への供物』を、現代に甦ったマニエリズム小説として読むことも、あるいは可能かもしれない。類比と対比の魔術的方法を唯一の武器として、無意味と化した現実世界の背後に参禅と輝きわたる反現実の世界を、一瞬にせよ読者に開示することを徹底追及した作品として。幾重にもわたるマニエリズム的な先行作の引用と、薔薇や不動やシャンソンなど多様な象徴が重ねあわされ、まさに「影と記号でできた倉」の様相を呈している。(中略)しかも読者が最終的に見出すのは、五色の薔薇と五色不動をはじめとして、作中に詰め込まれた諸々の象徴言語が、決して完璧な重なり合いを見せることがないという事実なのだ」とも。 |
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| 「中井英夫が『虚無への供物』で提示しているのは、よううるに自己完結的な象徴体系など二〇世紀の今日、どこにも存在しえないという冷厳な認識なのである。中井英夫は反時代的なマニエリスト演じ、類比と対比の魔術的原理を武器として完結的な象徴宇宙を築こうとしたように見えるが、実現された『虚無への供物』という作品は、二〇世紀ではマニエリズム的世界の構築など不可能であることを完膚なきまでに自己証明している。作者=探偵=犯人の牟礼田が、「一枚の壮大な壁画」としてマニエリズム的宇宙を完成することなど、世界戦争を通過した現代においてはもはや許されてはいない。読者=探偵=犯人の役を振られた凡人が、壊れた記号と贋の象徴が華やかに交錯する密林を、ずれや落差に悩まされ、どうしても辻褄の合いそうにない、決して割りきることのできない過剰をもてあましながら彷徨する物語こそが、ようするに『虚無への供物』である」というのが笠井氏の結論である。 『虚無への供物』から四半世紀を経て、綾辻行人を先頭として本格探偵小説の「第三の波」が到来した。綾辻のデビュー作『十角館の殺人』の印象は確かに新鮮であった。ただ、謎解きという点に関しては、古典探偵小説作家のニックネームが故意に隠されている登場人物がひとりだけいることが判ってしまえば、簡単に犯人が指摘できてしまう。20代という若さを考えれば、『虚無への供物』と比較することはできないが、1960年生まれの綾辻氏は現在46歳である。中井英夫が『虚無への供物』を書いたのは40歳だった。第三の波を先導してきた作家たちも今では皆、『虚無への供物』を書いた中井の年齢に達しているはずである。にも関わらず未だに『虚無への供物』を越える作品は世に出てはいない。アンチ・ミステリィー作家として期待した麻耶雄嵩も『夏と冬の奏鳴曲』を越える作品を書き得ていないし、山口雅也や北村薫はミステリィに新味を吹き込みはしたが、とうてい『虚無への供物』には及ばない。京極夏彦にしても同様である。しかし、彼らの中には必ず『虚無への供物』は生きているに違いないのである。『虚無への供物』を通過していないアンチ・ミステリィー作家は砂上の楼閣を自ら壊して喜んでいる子供に過ぎない。 読者とは欲張りなもので、それなりに面白い作品があるのに、こうして『虚無への供物』を読み直して見ると、自分が生きている間に『虚無への供物』以上の作品をもう読むことはできないかもしれないなどと思ってしまう。ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』を読んだときもそう感じたが、クロフツを読み始めるとまたヴァン・ダインとは違った味のある作家がいることを知って安心した記憶がある。その後も、ディック・フランシスの競馬シリーズやE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズも大変面白く読んでいる。今のミステリィ作家に『虚無への供物』を超える作品を期待するのは、プルーストの『失われた時を求めて』やジョイスの『ユリシーズ』を超える作品を求めるのに等しいのかもしれない。 |
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