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第三章から最終章までの部分で中井英夫は、パズルのチップとして延命が許された探偵小説的「人間」さえも、あえて虚無の淵に葬り去ろうとすることを明らかにする。「豚」のような偶然の死者であるよりも、計画的に殺害される殺人事件の被害者のほうが、まだしも意味がある。ザ・ヒヌマ・マーダーは、この探偵小説的アイディアを基本的に反復している。だが犯人が迷い込んでしまうのは、大量死の犯人としてしか「人間」ではありえないという逆説的な迷路なのだ。大量死の無意味性を拒否しようとして、大量死の演出者という責任を負わされてしまう逆説。ようするに犯人が行き着くところは、「人間」としての可能性を完璧に剥奪された意味の荒野、無意味の地獄である。ここまで説明しなければ、牟礼田の言う「一口にいえば、それはまったくの“無意味な死”の連続だろう。ひとりとして人間らしい死に方をした人はいない。……これくらい無意味な死が続けば、氷沼家に潜在する力が爆発しても不思議はない。どこかでそれを押し留めようとする働きが起こるのは当然なんだ」、だからザ・ヒヌマ・マーダーの真犯人は「御見物衆」としての社会であり読者なのだという作者の意図が伝わらないと判断したと考える方が自然ではないだろうか。
ここまで書かざるを得なかったために、中井英夫はデビュー作の『虚無への供物』において、既に探偵小説作家としての主体性は自己解体をとげてしまうのである。この作品は探偵小説を殺害し、同時に近代小説の殺害にも成功している。『虚無への供物』を書きあげた後、作者にできることはなにもなくなってしまった。探偵小説を書き続けることも不可能なら、小説一般を書き続けることも…
70年代に埴谷雄高によって「黒い水脈」と呼ばれ、夢野久作の『ドグラ・マグラ』と小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに再評価されるまで、正確に理解されていたとはいえない。笠井氏の先の批評も80年代以降のものである。もし、1962年の段階で『虚無への供物』が正しく理解されていたら、プルーストの『失われた時を求めて』のような円環小説になっていたかもしれない。
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