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| ローレライ(1) | |||||||||||||
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福井晴敏の『終戦のローレライ』は第二次大戦末期を舞台にした作品である。これまでほとんどの作品が現代の「自衛隊」をテーマに描かれていたことを知っている読者には『亡国のイージス』の後にこの大作(文庫版で4巻)が来る意味がよく理解できなかったのではないだろうか? 私自身も1巻の冒頭で躓いてしまい、読了までにかなり時間がかかった記憶がある。第1巻の「解説」に藤田香織氏も書いているように、この作品は『亡国のイージス』に感動した映画監督の樋口真嗣(ひぐちしんじ)氏が、「第二次大戦を舞台にした潜水艦もので新たな原作を」と福井氏に強烈に願ったことに端を発しているらしい。 樋口真嗣氏は1984年、高校卒業後に『ゴジラ』で怪獣造形に携わることで映画界に入る。その後、90年代に『ガメラ大怪獣空中決戦』で特技監督を務め、日本アカデミー賞特別賞を受賞している。一昨年はリメイク版の『日本沈没』の監督を務め好評を得ている。 |
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”ローレライ(Loreley)”は、ライン川流域の町ザンクト・ゴアルスハウゼン近くにある、水面から130mほど突き出た岩山のことである。スイスと北海をつなぐこの河川でも一番狭いところにあり、流れが速く、水面下に多くの岩が潜んでいるため、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした場所であった。また「ローレライ伝説」とは、上述のようにローレライ付近が航行の難所であったことが、“ローレライ”にたたずむ金色の櫛を持った美しい少女に船頭が魅せられると船が川の渦の中に飲み込まれてしまう、という魔女伝説に変化したものである。 原作を読んでから『ローレライ』という映画を見ると、さすがに特撮技術の高い監督だけあって、戦闘場面には充分見所はあった。しかし、原作でもスリル満点だった《ナーバル》の回収場面や「しつこいアメリカ人」と呼ばれる米潜水艦との海底での戦闘が描かれず、朝倉大佐の最後が殺害ではなく自殺に変えられていたり、原作では重要な役割を果たしていたパウラの兄フリッツ・F・エブナーが登場していなかったりと、正直原作とテーマがかけ離れ過ぎているような気がしてならなかった。『終戦のローレライ』には「それほど遠くない昔、まだこの国が“戦争”を忘れていなかった頃――」という序文が附されている。すでに“戦争”を忘れてしまった国を舞台に書かれたそれまでの作品とは異なり、この作品では「自衛隊」論ではなく「戦争」論が重要なテーマになっていたはずである。 |
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| 特に気になったのは朝倉良橘(りょうきつ)大佐の人物像と本来ならパウラの兄であるフリッツ・F・エブナーが幼少の頃に亡くなったという設定で登場しないこと、さらに一番面白いはずだった対潜水艦戦闘が全く登場しなかったことである。これだけの大作を2時間少々の映像に纏めるとなればかなりの割り切りや切捨ても必要なことは分かる。しかし、少なくとも朝倉大佐は映画で描かれているような人物ではなかったはずなのだ。少なくとも戦争の責任を取って自決するようなタイプの人間ではないはずであった。少なくとも私はそう信じている。朝倉大佐は満州事変の石原莞爾のようなタイプの人間ではないのかと私は原作を読んで想像していた。もし、彼の計画が成功し東京に原子爆弾が投下されていたら、今の日本はどうなっていただろう? 石原は1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任し、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した傑物である。第二次大戦時も「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、軍に受け入れられることはなかった。 あくまでも仮定の話だが、石原の満州国が存続してたら、日本は太平洋戦争など始めなくて済んだのではないか?そして、アメリカではなく中国や旧ソ連と近しい関係になっていたかもしれない。そうなっていたら今の日本や日本人はどうなっていただろう? 鮎川哲也氏の小説などによると昭和10年代の満州は日本より自由で活気があったように描かれている。軍部の厳しい統制を逃れるために新天地としての満州に希望を抱いて集まってきた人々が多くいたためだと言われている。 |
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エリート士官として軍に入った朝倉は石原莞爾同様に軍の現状に強い不満を覚え、『人は、どれだけ人でいられるのか。知性や道徳と呼ばれるものの強度を調べて、後の参考にするといったところかな。十年先……いや、百年先の日本の将来のために』と語り、それを確かめるために自ら志願して戦地に赴くのである。そこで仲間を殺しその肉を喰らうという修羅場を経験した朝倉は、『百年先の日本の将来のために』日本再生のための仲間を集め始めた。その一人が伊507の掌砲長の田口であった。 艦長の絹見真一は映画では役所広司が演じていたが、絹見艦長は心から朝倉の意思に同調していたわけではない。彼の本心はまた潜水艦に乗れるということの方が大きかったにちがいない。絹見は真珠湾攻撃の際《伊16》の艦長任命されたが、凱旋後は艦長を解任されその後は海軍兵学校の教官に甘んじていたのである。 |
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絹見の父忠輝は「戦いをやめるために発揮する勇気、それが本当の勇気だ。国民全員にそうした気概があれば、列強大国の狭間にあっても主権は維持される。争いに血をたぎらせ、益荒男ぶりを競う生き方は、過去の成人に許されても現代の軍人には許されない。なぜなら我々が扱う兵器の威力はあまりにも大きい。民百姓、女子供をも容易に殺傷するがゆえに、その扱いを任された我々は、戦闘においては誰よりも冷静な職能集団であらねばならない。指導者が誤った道を選んだなら、それを正し、自制できるのが軍人。そのために支払われる犠牲が真実の殉国であり、報国だ」と口癖のように言っていた。 そうした言葉を聴いて育った絹見も「愚昧でも蒙昧でもない、愚直。意思して悪を為そうとした者、国を滅ぼそうとした者などひとりもいない。愚直に己の節を通さんと欲し、刀折れ矢尽きても退く術を知らず、引き返せないところにまで来てしまったこの国の人々――しかし、いまの我々はそれを否定も肯定もできない立場にいる」と言い、「だから(朝倉大佐の命令を)やり通す。それだけだ。そうすることでしか、我々は次の世代に己を示す術を知らない」と重ねるのだ。 映画に登場した軍属技官の高須成美という士官は、原作のフリッツ・F・エブナーの代理的な役割を果たすために新たに設定された人物のようだが、孤独で無口で絹見艦長等とことごとく対立していた元ナチス親衛隊のフリッツが、最終的には折笠や田口にも理解を示し、B29破壊に大きな役割を果たすのだが、高須は朝倉大佐のロボットのような存在でしかなかった。朝倉大佐は自分のロボットを作りたかった訳ではない。結局、田口掌砲長が折笠や絹見艦長を理解するようになるように、決して自分の同士を自分の手足として使い捨てにするような軍人ではなかったはずなのである。その結果、私利私欲のためだけに朝倉に追随していた部下に殺されることになったのである。 |
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原作ではローレライシステムは《ナーバル》という小型潜水艇に搭載され、海底に放置されていた。伊507の最初の任務はこの《ナーバル》の回収であり、ここで「しつこいアメリカ人」の潜水艦との死闘が繰り広げられるのである。一方で「回転」という特攻潜行艇の乗組員と整備士として清水と折笠が横須賀から伊507が停泊する呉へと向かう。途中立ち寄った広島で折笠はおケイという女と料亭で知り合う。この料亭は原爆投下の目標となっていた相生橋のすぐ近くにあり、おケイは最初の原爆投下で悶死する。「日本はいま暗いトンネルの中を走っとるけど、目の前にあるものがすべてじゃない。トンネルはいつか必ず終わる時がくる。自分はその出口を見つけるために闘うんじゃって……。あの人の口癖じゃったわ」という言葉を残して去っていった好きな男と添い遂げられず、戦争の狭間に可憐にひっそりと咲いたようなおケイというやさしい女が無残に消失させれるというエピソードは、この小説の中では重要な意味を持っていると私は思っている。 | ||||||||||||
| しかし、映画ではこの部分も全く登場することはなかった。あくまでも戦闘重視の構成になっていた『ローレライ』は女性の受けは良くなかったのではと思っている。パウラと折笠の恋愛シーンもほとんど割愛されていた。結末部分も大きく改変され、原作では折笠とパウラは「ナーバル」でテニアンから無事脱出に成功し、九州に漂着する。「ナーバル」を洞窟の奥深くに沈め、二人は東京に行き結婚する。ラストは祖母となった温子(パウラ)が孫たちと「ナーバル」を沈めた場所を訪れ、過去の戦闘を思い出しながら多くの犠牲者達の声を聞こうとするシーンだったのに対し、映画では絹見の腕時計をした男が老いたアメリカ人にテニアンでの戦闘の場面を語らせるシーンになっていた。原作では「椰子の実」だった唄が「モーツアルトの子守唄」に変えられていた。 | |||||||||||||
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「しかしその一方で、あの朝倉大佐が警告した通り、個性の尊重が我欲さえも正当化し、放埓に走って手がつけられなくなるのも人間の本質なのだろう。押さえつければ硬直し、間を離せば自堕落に転ぶ。振り切っては戻り、振り切っては戻りの繰り返し。そのたびに何万、何百万の同属を殺してきた人間――。でも、それでも兄(フリッツ)は、《伊507》の人たちは、自分と征人に希望を託した。日本に住む何千万の人々、顔をも知らない他人たちが築いてゆく未来に望みを繋いだ。いつかそうしたように二人で『椰子の実』を歌い、渇きと空腹を紛らわせながら、自分たちが生きている不思議さをあらためて実感させられることもあった。守るべきもの、希望を託すに足りるもの。その時々の立脚点によって揺れ動く、明日もそうであるという保証は何もない曖昧なもののために命を賭け、死んでいった人たち。底抜けにお人好しで、大雑把で、だからこそ最後の一線では律儀であろうとする。その潔さと勇気がある限り、人が地上からいなくなることはないとパウラは思う」と福井晴敏は書いているのである。 映画では《ナーバル》は登場せず《N式潜》となっている。特攻用に搭載されていた特攻潜水艇《海龍》と「ナーバル」を足して2で割ったような感じがしてならない。これでは「回転」操縦士清水の出番が全くない。それに本来は「回転」の整備士であるはずの折笠が艦長に特攻を志願したりするのである。原作では清水は折笠と共に《ナーバル》回収に大いに貢献する役が与えられていたのである。それが映画では溝に嵌った腕が抜けなくなり、《N式》発艦の際に水没死することになる。 |
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| 《ナーバル》に搭載された「ローレライ・システム」とは本来ナチス開発したがパウラの水中感知能力の高さを生かすために、感知機能を増幅し《伊507》に伝達する装置だったのである。《伊507》とは戦利潜水艦に名づけられた日本名で、本来はフランス製作の《シュルクーフ号》であり、それをナチスが接収し《UF-4》と名づけられた。ドイツ敗戦で日本に譲渡されたとされる2門の大砲を装備した極めて珍しい潜水艦である。 パウラはドイツでの実験中に《シュルクーフ》の艦長だったコルビオとも『なあ、お嬢さん。人間なんてのは、自分の足で歩いているようで、実は誰かに歩かされている。神様とかそんなもんじゃない、人の考えなんぞ及びもつかんなにかにだ。人にできることといやあ、その瞬間瞬間に最善の道を選び取って、そっちの方向にちょっとだけ足を向けるってぐらいだ。都合のいいところで留まることはできない。流れに逆らって引き返すこともできない。おれにとって、故郷に戻るってのは留まることのように思えた。だからこうして自分が選んだ道を歩き続けてる。肥え溜めに頭を突っ込む羽目になっても、少しでもいい方に行けるように足をばたつかせてるんだ。後悔なんてしてる暇はないんだよ』という会話も交している。そして『あんたもしっかり生き抜けよ』と励ましも受けるのである。 |
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