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| ローレライ(2) | |||||||||||
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第二次世界大戦時下の日本を背景として、原爆投下を阻止すべく奮闘する潜水艦の乗組員達を描いた、いわゆる潜水艦映画ではあるが、戦利潜水艦《伊507》 や「ローレライ・システム」などの架空兵器の登場、また第三の原爆、海軍の内乱など史実とは異なる展開が語られる事から、架空戦記またはSFファンタジーとしての印象が強い作品である。「ガンダム世代」の大人から見るとパウラは「ニュータイプ」なのか、「強化人間」なのかという疑問が自然に浮んでくる。《ナーバル》の中のパウラは「Zガンダム」のフォー・ムラサメに似ていなくもないが、結局、折笠と結婚し孫たちと会話を交すラストシーンなどを見ると「ニュータイプ」だったのではないかと思えてくる。祖母の資質の一部が孫娘に隔世遺伝しているように描かれているからである。 | ||||||||||
| 「ニュータイプは人の革新である」というのは「ガンダム」のジオン・ダイクンの言葉であるが、福井晴敏はパウラをナチスが作り出した「強化人間」ではなく、戦闘の中で開花した「ニュータイプ」として描きたかったに違いない。そのためのラストシーンだったはずなのに…… 原作ではナチスが純粋なアーリア人の子供たちを集め「強化人間」を作ろうとしたが、結局、力を発揮できたのはパウラただひとりであったと書かれている。そのパウラを守るためにナチス親衛隊に入隊した兄のフリッツの役割も大きなものであった。それを高須という訳の分からない軍属技官と置き換えるという選択はいただけない。アムロとシャー以上に能力の差はあったにしても、もしかするとフリッツにも「ニュータイプ」の能力があったのかもしれないのだ。 『終戦のローレライ』の影響か、『逆襲のシャア』という劇場版アニメで、シャアは朝倉大佐と同じことを考えている。朝倉大佐は日本再生のために、シャアは地球再生のために、東京や地球を核で汚染させようとするのである。「Zガンダム」ではエウーゴの一員として地球連邦を我が物にしようとしていたティターンズを抑えるために、シャアはアムロやブライトと共に戦っていたのである。そのシャアが何故地球にコロニー落しを強行し核の冬を誘発しようとしていたのかが理解できない人も多かったに違いない。しかし、『終戦のローレライ』を読めばその謎が解けるのである。 『日本にあって、国際人たれと教育を受けてきた海軍将校だ。それがなぜやすやすと時勢に流された?(勝てない戦争を始めたことを指す)大衆はもとより、それぞれに知恵を持つ知識層までが無意味な精神論に走り、勝てない戦争を勝てると信じ込んだのはなぜだ?』という朝倉大佐の言葉をかみ締めて欲しい。 |
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| 『思想統制の結果だけでこうはならない。押付けられれば、どことなりと逃げ道を探るのが人の質だ。こうもやすやすと軍政を受け入れ、勝てない戦に一丸となって突入したのは、そうさせる下地が日本にあったからだ。八百万の神がおわす国、不滅の神州、畏くも天皇陛下が治められる国……。自分たちは特別だと信じる中身のない高慢と、それを支える精神的な柱。その根元に寄り添ってさえいれば、安心して生き、死んでゆける。己の尊厳を仮託するものがこの国にはあるからだ。拠って立つもの存在が、日本人の正当な知の発動を妨げていたからだよ』と朝倉大佐は語り、さらに『そういう生き方が許された時代もあった。しかしいまは違う。日本の理念が国際社会では通用しない現実を、この戦争は我々に思い知らせた。にもかかわらず、もはや無力と証明された先進論を振りかざし、視野狭窄な作戦から生み出される戦略的齟齬をごまかし、己の無能を隠蔽し続けている奴らがいまも存在する。それは度しがたい。もし日本が敗戦後に生まれ変われるのなら、この精神論の根本、拠って立つものを完膚なきまでに叩き潰した方がいいのかもしれん。現人神も、八百万の神も存在しない。日本列島は資源の乏しいただの島でしかない。己の行動の論拠は、己自信で立てるよりないのだとわからせるために』と続ける。朝倉大佐の最後の言葉は『逆襲のシャア』のシャアの言葉に似てはいないだろうか? | |||||||||||
| 福井晴敏は明らかに私と同じ「ガンダム」ファンである。それが嵩じて「ターンAガンダム」をノベライズしてしまった経緯を持っている。本作の上映当時放送されたフジテレビ系列の報道番組に生出演した際、「『ガンダム』を50歳代以上の人達にどうやったら理解してもらえるか」と、本作の企画意図について発言していたというから、パウラは「ニュータイプ」として描きたかったのかもしれない。「ガンダム」では戦争のための「兵器」として利用されてきた「ニュータイプ」を「終戦」のための「兵器」としたところに福井晴敏の強い想いが感じられた。パウラの操る《ナーバル》は「ガンダム」で言うところの「サイコミュー」にあたるのだろう。 『終戦のローレライ』はガンダム世代の読者には違和感なく受け入れられるだろう。しかし、「ニュータイプ」=「エスパー(超能力者)」と考える人たちにとっては受け入れるのは難しいかもしれない。「ガンダム」シリーズの中でも「ニュータイプ」という言葉の定義はさまざまだが、私は庵野秀明氏が最初に提唱したジオン・ダイクンの言葉「ニュータイプは人の革新である」と解したい。従って「ニュータイプ」の能力があるとすれば、それは「戦争」のためではなく「終戦」や「平和」のために使われるべきものであろう。それ故の『終戦のローレライ』なのである。 |
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| 確かに朝倉大佐が「米国は、アメリカ合衆国は圧倒的に豊かで、日本人は肉体的にも精神的にも飢えてきっているからだ。方向の精神、律儀さと勤勉さ、武人たらんとする男、大和撫子たらんとする女……。本来、個々人が持ち得ていた美徳や道徳観念を、義務として押付けられた瞬間から、日本人は豊かさを失った。我々はとっくの昔に窒息していたんだよ。その箍が外れ、米国の物量経済が真空地帯になだれ込んだら……日本人は呆れるほど簡単に米国に尻尾を振るようになるだろう。指針を失った人心は形(なり)だけ似た経済至上主義に飛びつき、まやかしの自由を詠って飢えを満たそうとする。そして義務化された美徳や道徳観念は否定され、急速に人の心から消えてゆく。その先にあるものは……復興に名を借りた欲望の暴走、狡猾、打算、成算。東洋の敗戦国を基地にし、植民地主義に変わる政治的支配の実験場として、ありとあらゆる試みを国家規模で押しつける勝者の傲慢。それを勝者の正義として受け入れる、敗者たる日本人の卑屈さ」と予期していた時代が到来しているが、福井晴敏のこうした考え方はデビュー当時から一貫したものである。戦後作家だから書けることで、戦前・戦中の作家で今の日本の現状をこのように予測していた作家は少なかったに違いない。 しかし、福井晴敏は必ずしも朝倉大佐や『亡国のイージス』の宮津艦長の息子の考えに同調している訳ではない。「破壊の後の再生などはあり得ない。いまある物を組み直し、やり直そうとする心根の中に“希望”や“豊かさ”は訪れる。そう信じ、信じられる自分を信じて、征人はもう臆することなく虚無に繋がる穴を凝視し」する折笠や仙石曹長の孤独な戦いを描き出すのである。 福井晴敏にとっての朝倉大佐や宮津艦長の息子の意見は理想ではなく、今ある日本の状況に対する「提言」だと私は理解している。でなければ彼らの理想実現はテロリズムと見なされることになる。「革命」が真の「革命」になるためには国民のコンセンサスはどうしても必要なのである。それがない「革命」はただの「叛乱」としか見なされない。日本では「五・一五事件」がその典型であろう。 |
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| もうひとつ私たちは『終戦のローレライ』を通して学ばなければならないことがある。それは米空母艦長マーティン・オブライエンの次のような言葉である。「この大戦で、合衆国は人類史上最強の軍事力を手に入れたんです。今後はなにもかもが変わっていくでしょう。頭の中身は石器人の頃からたいして進歩派していないのに、道具ばかりが強力に発達してしまって……。情報部なんぞに勤めたお陰で、政治の裏舞台に首を突っ込んでおりますとね、見えてくることがあるんですよ。この力を使いこなす叡智は、人類にはない。我々は、破滅に至る道を突き進んでいるのではないかとね」この言葉は世界最大の兵器を保有するアメリカ軍人の自戒であるが、そうした想いを抱いているアメリカ軍人がどれほどいるだろうか? 現実にアメリカは日本に2基の原子爆弾を投下し、数十万人の命を奪った国である。「発達した道具や技術が人の心性を歪め、野心を育てて、世界規模の壊乱を引き起こす。いまも変わらない――いや、きっとあの時を境に人は、世界は変わったのだ。あれから幾度か大きな戦争が起こったが、そのたびに人はなにかしら新しい要素をそこに加え、その後始末に奔走させられてきた。冷戦下における原子爆弾……核兵器の蔓延。枯葉剤に代表される化学兵器が、敵味方を問わず深い傷跡を残したベトナム戦争。絶対に的を外さない爆弾で、敵の中枢のみを狙い撃つというピンポイント爆撃――今回の旅客機テロの原形となったそれは、湾岸戦争で初めて一般の耳目に触れた」という温子(パウラ)の言葉をかみしめて欲しい。 |
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| 科学技術の進歩は止めようがない。問題はその技術の使い方なのである。そしてそうした新しい技術を人々の平和と幸福のために正しく利用できる人間こそが「ニュータイプ」なのだと私は信じたい。数万年で進化を遂げてきた人類も、わずか百年の間の急激な状況の変化に対応出来ずにいる。その最たるものが科学技術である。「重力に魂を引かれた人間」であったとしても、科学技術の正しい使い方は考えられるはずである。原子力は化石燃料の代替エネルギーとしては不可欠なものになるかもしれないが、兵器としての仕様は極めて危険であることは誰もが知っている。しかし、核兵器の廃絶どころか、抑止力として保持しようとする国が増えているのが実状である。 事実上核の廃絶が難しいのならば、放射能を無害化できる技術の開発に努力すべきではないのか?少なくとも核兵器を持たない国の使命として……不治の病とされた癌でさえ克服できそうな時代になっている。放射能さえ無害化できれば原子爆弾もただの爆弾に過ぎなくなり、抑止力にもなりえなくなる。そうすれば核保有国など何の脅威もなくなるはずである。難しいことは分かっているが、それを望み実行できるのが本当の「ニュータイプ」なのではないだろうか? |
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| 最後に「そこに豊かさはあったのか。自由の喜びはあったのか。本当に豊かになったのなら、なぜ際限なく成長を求め続けるのか。本当に自由になったのなら、なぜ息苦しさがいつまでもなくならないのか。確かに見た目の豊かさは手に入れた。だが飽食の時代という言葉とは裏腹に、日本人はいまだに飢えている。利己主義、貪欲、猜疑心、闇市で馬脚を現した本性に操られ、我々はなにか大事なことを学び忘れたまま、ここまできてしまったのではない。経済という言葉で欲望を粉飾し、正当化して、闇市の頃よりタチの悪い社会を作り上げてしまったのではなかったか。 恐怖に対抗するために、自らが恐怖になることを強いられる力の理論。組織と個人、全体と個のあり方。あの戦争が残したのは、戦争は悲惨だなどいうバカでもわかる教訓だけではない。もっと学ぶべきことがあったはずだ。にもかかわらず、我々はすべてを忘却の淵に沈めてきた。愛国がだめなら愛社だとばかり、帰属の対象を国家から企業に移し、国という大元の共同体を無視して企業エゴを加速させてきた。お陰でエコノミック・アニマルと呼ばれるほどの経済力は身につけたが、国力そのものは、石油の価格が高騰しただけで慌てふためく脆弱さをさらした。経済力を軍事力と置き換えれば、そっくり同じ歴史をくり返しているとなぜ気づかないのか。気づいてもやめられない、もう後戻りできないところまで日本は再び来てしまったのか―――」という温子(パウラ)の想いで締めくくろうと思う。 |
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