世界論

 

 
 あたかも反復するかのように、戦前から幾度も「探偵小説の危機」は叫ばれてきた。それは探偵小説が出生した瞬間から危機の渦中にあり、不断の危機においてのみ存在しえた事実を暗示している。たとえば大正十二(一九二三)年に『二銭銅貨』で、日本の探偵小説の誕生を象徴的に告げた江戸川乱歩は、昭和二(一九二七)年から一年二ヶ月もの長期にわたる沈黙に陥った。執筆を再開した乱歩の作風には、すでに無視できない変容が生じていた。英米風の「理知」的な文学である探偵小説を、日本に根づかせようとした初期の努力は半ば以上も放棄され、作家としての乱歩は耽美的あるいは幻想的な作風に転化していく。

 乱歩の沈黙と変容にもかかわらず日本の探偵小説は、昭和初年代の十年間でジャンル的な自己確立をなし遂げるにいたる。しかも探偵小説が社会的な位置を獲得しえた瞬間には、ほとんど必然的に第二の危機が到来した。昭和十年(一九三五)年前後におこなわれた本格論争や芸術論争は、探偵小説の危機の反映として、さらに危機を克服するための方向性の模索として理解できる。続いて言論統制による日中戦争下の危機、昭和二十年代の絶頂をきわめた戦後探偵小説の、昭和三十年代における危機と社会派の誕生。前者の場合は権力の干渉による外在的な性格の危機であるともいえるが、後者はジャンルとしての探偵小説に深く内在したものと把握しなければならない。一九九〇年代における本格探偵小説の復活と繁栄にいたるまで、以降も曲折に満ちた遍歴史があり、家庭の節目ごとに「危機」は幾度も繰り返し叫ばれてきた。(P13-14)

 歌舞伎に忠臣蔵の「世界」が存在するように、ギリシア悲劇にはオイデプス伝承の「世界」がある。あるいはアルゴス王家ものとかトロイ戦争ものとかという具合に、さらに「世界」のサイズを拡大して考えることもできる。ギリシア悲劇の性格からして、アイスキュロスに『ペルシャの人々』があるように決して皆無とはいえないが、歌舞伎の世話ものにあたる現代劇の作例は少なくない。(P16)

「このような重複を、むしろ当然のこととして、その上で仕事をしていた」(田中道太郎「ギリシャ悲劇全集W」『エレクトラ』解題)のは、古代ギリシアの劇作家だけではない。「世界」としての複数の作品が、背景や人物を共有する歌舞伎の場合もまた同様である。

 近代的な芸術理念によれば、作品とは作者の被造物=所有物である。オリジナルな、ようするに他と交換不能な独自の内面、思考、感情が作品として「表現」される。結果として、「<近代芸術(文学)>に特有のオリジナリティの尊重」という主張があらわれる。

 神話、伝説、民話はむろんのこと、武勲叙事詩などの近代以前の文芸においては、物語の自己増殖あるいは自己累積の論理を明瞭なものとして見出しうる。近代的な作品は作者の被造物=所有物であるが、近代以前の物語は多数の伝承者を存立契機として含みながらも、それ自体において自己運動する。(P18)

 しかし探偵小説というジャンルは、恋愛小説のように結果的かつ便宜的な区分によるものではありえない。恋愛を扱う小説が恋愛小説であるように、探偵が登場する小説は探偵小説であるとは必ずしも定義できないのである。ジャンルとしての探偵小説は、探偵が登場する小説や、犯罪事件が扱われる小説という外的な区分には還元されえない。固有のジャンルである探偵小説は、近代以前の文芸の基本形態に起源をもつ歌舞伎の「世界」にも類比的な、全体的かつ有機的な宇宙をなしている。近代小説の下位ジャンルとしては例外的に、探偵小説は自己運動する「概念」として把握される。(P20)

 探偵小説が近代文学の制度的中心から「排除」され、「差別」されてきたことには、否定できない根拠がある。探偵小説は近代文学の制度を根底から脅かしかねない異形のジャンルなのだ。しかも、山口昌男ふうに解釈された「中心を活性化するための周縁」的存在にとどまるものでもない。近代小説が探偵小説をジャンル的な総体として内部化することは不可能うだろう。もしそのようなことが強行されるなら、近代小説の制度それ自体が瓦解するに違いない。(P22)

 しかし探偵小説が前近代の遺物であるという種類の結論は、必ずしも必然的ではない。前近代的な「世界」性において、歌舞伎と共通するように見える探偵小説だが、それはあくまでも近代という不可避の環境性において、近代が強制した諸条件を破りつつ生じた固有の「世界」なのだ。結論を先取りしていえば、探偵小説は近代小説を否定的に媒介しながら発生したジャンルであり、その存在自体において近代小説の根底的な批評でもある。探偵小説とは外見上は近代小説の下位ジャンルとして存在しながら、実は近代小説の総体を裏返しにもしかねない奇怪な形式にほかならない。だから探偵小説は、近代小説以後を展望するに際して、ある特殊な意義をにないうるのである。(P22-23)

(前略)「和魂洋才」なる発想も、このような把握から生じえた。軍艦や近代的軍隊は「才」であり、それを利用する「魂」とは別の存在である。しかし両者を機械的に切断することが、はたして可能なのだろうか。軍艦や軍隊を利用する「和魂」じゃ不可避的に、近代的な自我や内面を析出するのではないか。

 いや「才」と対立的におかれた「魂」なるものが、こうした外面と内面の対立の構図はそれ自体が、すでに近代の産物であると考えなければならない。たとえば狂気という主題を参照してみよう。ロマン主義以降の近代文学において、ほとんど特権的な主題をなしたところの狂気。それは孤独な天才や、俗世間とのラディカルな対立や、社会的破滅と自殺などの近代文学的な主題群を必然的に引寄せるだろう。しかしミッシェル・フーコーが『狂気の歴史』で克明に明らかにしたように、「狂気」自体が近代の産物なのである。一八世紀の労働監獄を規範として組織された工場と監獄、さらに病院。近代的な「隔離」と「幽閉」のシステムである病院が狂気なるものを発明した。外面として分類される病院システムと、内面的な現象と信じられている狂気がフーコーにおいては一体のものとして記述される。狂気もまた近代という時代の産物であり、内面的な制度性にほかならない。狂気とは近代文学が、その作者および読者として想定しているような「私」の自己崩壊を意味する。自己崩壊が制度の産物であるなら、そこのおいて崩壊する「私」もまた近代的制度でしかありえないだろう。(P24-25)

 柄谷が(言文一致の意義について)述べているのは、おおよそ以下のような主張である。あらゆるものに先立つ、独立自存の「私」がある。そのような「私」は、内面的な思考や感情を「作品」として表現する。しかし作者と作品とは、さしあたり別の存在であるのだから、「作者=作品」の等式を成立させるには、式のイクォールにあたる「なにか」が介在していなければならない。それがデリダのいわゆる「表音文字」である。あるいは、むしろ「音声」である。「内面=外面」という奇跡は、内面を忠実に複製しうる「音声」の存在において可能ならしめられる。「音声」の等価物として表音文字が西洋においては伝統的に存在してきた。

 近代小説は一般に無制約な形式であるといわれている。無制約であるとは、限界まで希薄化された様式性を意味する。私に帰属する固有の内面を、そのまま忠実に模写し外部に対象化するには、表現媒体はできるだけ無制約的であることが望ましい。近代以前の日本語文には、様々な制約が課せられていた。明治期における「言文一致」とは、たんに口語と文語の一致を目指したものではない。(P26)

 近代小説の言語と文体は近代以前に普遍的だった「作者のいない作品」の水準を越えて、作者=作品(内面=外面)という直接形態を可能ならしめたと自負している。けれども認識されない表現形態の物質性は、無意識的な制約として近代小説の作者および読者を密かに統御し支配している。それは文体についてのみいえることではない。近代小説の発生史を克明に検証してみれば、近代的な意識には大人のように自明であると信じられているものが、長年の曲折の結果としてかろうじて確立されたシステムにすぎないことも了解されるだろう。

 近代小説のジャンル全体が歌舞伎の「世界」と同質的な枠組みを前提としているのだが、しかし近代小説の自己意識は、おのれを和歌や歌舞伎のような前近代的な文芸ジャンルとは区別された、「自由」な存在であると自賛してきた。だからこそ、近代文学の主流は探偵小説を忌避せざるをえない。近代小説は「世界」のような前近代性を否定し、それを超越した近代的な作者=作品の地平を拓きえたと主張する。近代小説の下位ジャンルとして生じながら、「私」を主語としない近代以前の文芸形態を温存している探偵小説なるものは、近代人の自明性を脅かすものとして否定されたのである。(P28-29)

 笠井繁『探偵小説の構造』より。
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