探偵論

 

 
 このようにベンヤミンは、幾分か『歴史と階級意識』のジェルジュ・ルカーチふうでもある議論を展開している。社会の資本主義化による中産階級のプロレタリア課の進行が、フラヌール(遊民)という中途半端な存在形態を解体し、ポオやエンゲルスに注目された群衆の人を大量生産する。ベンヤミンが「群衆のひと」を検討して結論しているように、探偵が街路を満たした群衆に由来するキャラクターであるなら、完成された探偵キャラクターは「商品に感情移入する」フラヌールではなく、それ自体として「労働という商品」に転化せざるをえない。探偵キャラクターの完成形態はダシール・ハメットの私立探偵だろう。

 『赤い収穫』の探偵役はデュパンのような趣味人ではなく、巨大な調査企業に勤務する平凡な労働者にすぎない。しかも空虚な内面を、デュパンやデュパンの模倣者のようにペダンティックな饒舌でいんぺいすることもない。探偵キャラクターの完成形態にふさわしく、この人物は名前さえもたないのだ。であるにしても、ポオのデュパンとハメットのコンチネンタル・オプのあいだに横たわる一世紀もの時間が、探偵キャラクターの発展史においてゼロであるとは、必ずしもいえそうにない。(P81-82)

 まだ群衆的な都市社会を知らないバルザック的水準では、辺境から西欧の都市中枢に帰還した冒険家に「アウトサイダーの大物」という肩書きが付与された。この点でモーリス・ルブランのルパンはヴォートランの直径子孫といえる。しかし、プロレタリア化しつつある中産階級の詩人ボードレールは、たんなる無頼漢、たんなる社会の屑にヒーローの座を提供するのだ。ベンヤミンの観点を敷衍するなら、現在にいたるまでフランス・ミステリの主流をなしているのロマン・ノワールは、社会の「屑にヒロイックな題材を見いだ」したボードレールのヴィジョンに起源をもつ。

 ところでベンヤミンは、引用した文章(「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」)のなかで「この水脈はボードレールに発している。ポーのヒーローは犯罪者ではなく探偵だった」と周到に指摘していた。フランス七月王政期の古典ブルジョワ的な犯罪者ヒーロー(バルザックの「アウトサイダーの大物」)、第二帝政期のプロレタリア化が進行しつつある中産階級のヒーロー(ボードレールの「たんなる社会の屑」)、それにたいしてプロレタリア化が完了した時代のヒーローであるポオの探偵デュパン。ベンヤミンは以上のような三段階を、探偵キャラクターの発生史ととして想定しているようだ。(P83)

 文学史的な臆断(ドクサ)を排除すれば結論は明瞭だろう。近代社会は商品化が極限まで昂進した市場社会である。近代においても前近代の諸社会と同様に、文芸家による作品は多種多様なジャンルにおいて政策され続けたにしても、普遍的な商品性を獲得しえた製作物は小説以外に存在しない。

 大量に印刷され諸点で販売される小説作品は、マルクスの商品論で実例として検討されている「十エレのリンネル」や「一着の上着」と基本的に同型の資本主義的商品である。多様な文芸ジャンルのなかで小説形式による作品のみが近代的な市場社会という条件のもと、過不足なく一箇の商品たりえた。あらゆるモノを商品化し人間の労働力までも商品化した近代資本主義のリアリティは、それ自体として商品に転化しえた小説形式において最もリアルに表現されえたのである。(P84)

 小説商品が社会的に成立したのは、フランスの七月王政期のことだ。スタンダールまでの小説家は社会階級としては貴族やブルジョアに属し、作家活動は余技ないし趣味として行われていた。絵画や音楽や建築ならパトロンの援助が期待できる。しかし小説家を雇って小説を書かせようという王侯貴族や富豪は、十九世紀初頭まで存在したことがない。

 十九世紀中頃になると、絵画などの世界でもパトロン制度それ自体が崩れはじめる。また、七月王政期に日刊新聞や雑誌など商業ジャーナリズムが広範に成立し、職業としての作家が生誕する。無名の文学青年がベストセラー作家として成功し、一夜にして富と名声を掌中にするという現在にまで通じるような幻惑的な事例もまた、すでに七月王政期には生じていた。この時代の最初の成功者が、新聞王ジラルダンに抜擢されて「プレス」紙に新聞小説を連載し、読者の熱狂的な支持を集めたバルザックである。(P85)

 さらに重要なのは、最初のプロレタリア作家ポウが造形した、最初のプロレタリア的ヒーローである探偵デュパンのキャラクターに、フランス文学ではスタンダールやバルザックにおいて完成されている、近代小説の方法から決定的に逸脱するものが認められる点だろう。この場合、近代小説の文法とは「私は私の真実を語る」という規則で示される。

 文学史では、近代小説の起点はセルバンテスの『ドン・キホーテ』、リチャードソンの『パミラ』、ルソーの『告白』、等々にあるとされている。『ドン・キホーテ』は、近代的な人間性について無知である伝統的な物語(直接的には騎士道物語の頽廃形態としての「青表紙」の武者修行小説)に死亡宣告を下した。『パミラ』は書簡体の形式で、近代的な主体の内的なリアリティを作品化した。これらを方法的に集大成したのが『告白』である。ルソーは主に娯楽のため中性的な背景や人物を安易に導入する物語への批判を、小間使いの結婚願望や出世物語よりも内面的に深い真理を主題化することによって、完成された形で提出したのである。『告白』を起点とした自伝小説や日本の私小説のように虚構性の低いものから、スタンダールやバルザックの代表作のように虚構性の高いものまでさまざまな実現形態をもちうるにせよ、「私は私の真実を語る」というところに近代小説の本質は見出される。(P87)

 ルソー以降の近代的な文学観では必然的に、「作者―作品―読者」の垂直的な三肢構造が所与のものと見なされるにいたる。作者(私の真実)に対象化されるのだ。読者には作品という作者の代理物が与えられる。読者は作品という代理物(私の叙述)を正確に「読む」行為を通じて、作者(私の真実)に到達しうる。いや、是非とも到達しなければならない。それが「読む」行為の、他に帰ることのできない厳粛な意味なのだから。

 言葉の背景には唯一の意味がある。文章の背後には唯一の文脈がある。そして作品の背後には、唯一の作者がいる。そのように確信された以上、近代小説における「作者―作品―読者」の三項性は、「作者―読者」の二項性に還元されてしまう。作品、文章、言葉は両者を媒介するものにすぎない。

 ポストモダンな批評理論は、作者と読者のあいだで押し潰され無も同然のものにおとしめられてきた作品、文章、言葉の独自性を、テクストやエクリチュールの領域として救い出そうと試みた。作品は作者(私の真実)と読者(他の私の真実)を一致させるために要請される、できればなしで済ませたいような媒介物、伝達手段ではありえない。

 近代的な発想では作者が主人であり、読者は僕の役割を振られる。読者は万能の作者に従うしかないのだ。しかし、それが近代的な固定観念にすぎないことはもはや明確だろう。作者の前提には読者がいる。作品の前提にも読者がいる。読者なる存在が「作者―作品」の二項を虚構的に創造し、危うく吊り支えてもいる。この問題にかんしては、次のように二つの角度から語ることができる。

 どんな作家でも最初は読者である。他人が書いた作品を読んで、程度の多寡はあれ、それを模倣しながら自分の作品を書くのだから。一冊の本も読むことなしに固有の作品を創造しえた作者など、存在しえた試しはない。

 また作品の固有性とは、模倣において読者が作者に転化する歳の、ほとんど必然的である微妙な齟齬やズレにほかならない。完璧な模倣というユートピア的欲望が挫折する結果、模倣者の意に反して、作品に固有性が生じる。たんなる模倣物が「作品」に転化する。

 第一は、読者が完璧な模倣の不可能性において、しばしば意に反して固有の作品を作り出してしまう事実であり、そうした結果の自覚が作者なるも存在を事後的に産出する点である。そして第二に、ある意味で第一を敷衍するものとして、世界における主観の経験の本源性という問題がある。

 世界があり、そして私があるのではない。私が経験することにおいて、その都度、世界なるものは創造される。現象学はそのように主体と客体や私と世界を把握する。

 私が生まれる百年以上も前に、エドガー・アラン・ポオなるアメリカ作家が存在し、「モルグ街の世辞」という作品を書いた……。日常的な意識では、だれもがそう考えるに違いない。しかし奇妙なことに、物事を厳密に吟味しようとすると、疑えない事実と信憑していることになんの根拠もないことが判明してしまう。ポオの小説どころではない。目の前にあるコップでさえ、それが本当に「ある」のかどうかは、だれも確たるものとして決定しえないのだ。デカルトからイギリス経験論を経てカントにいたる近代認識論哲学の全体が、このことを証している。

 しかし「モルグ街の殺人」は、私に模倣の欲望を挑発する。挑発された模倣欲望が第二、第三の探偵小説を生み出してしまう。「モルグ街の殺人」という作品が真実に存在するかどうか、それについてはだれも最終的に確定をしえない。そうした方が日常生活に便利だから、なんとなく「ある」と信じているにすぎないのだ。世界はこのようにできている。しかしデカルトが方法的に懐疑したように、それが夢のなかの出来事であるにせよ、「モルグ街の殺人」を読んだというこの経験の確実性は否定でしえない。

 「モルグ街の殺人」が私に、模倣の欲望を挑発したからである。テーブルの上にあるコップの実在はだれも証明することができない。しかし、コップのなかの水を飲みたいという私の欲望は、わざわざ証明するまでのないような自明の経験だ。ようするに、やみがたい欲望は意識にたいして明証的なのである。(P88-90)

 探偵が謎を発見する。むしろ創造する。これは探偵小説の根本的な構造なのだ。もしも探偵がいなければ、探偵小説は存在することができない。探偵とは読者であり、読者とは享受者(しばしば欲望として経験される明証性において、世界を世界たらしめる者)なのだ。享受者とは、人間という存在それ自体である。

 探偵小説の読者は作品世界を横断する探偵というキャラクターにおいて、読書経験の意味を、さらにいえば人間的経験の普遍的な意味をあらためて読みとる。探偵小説における探偵キャラクターの先行性と特権性は、つまるところ以上のような点に根拠づけられている。探偵とは読者なのだ。読者とは経験において欲望を、根源的には模倣欲望を明証的なものとして自覚する存在である。しばしば実存と呼ばれるところの人間存在である。(P92)

 反省も懐疑もなく、「痛い」ことだけが事実だ、確実だと感じる瞬間、人は外部に直面している。内部の調和的な円環を破壊する残酷な外部に。快楽と同様に、苦痛もまた、私という内部には属さないものであり、外部から由来も知れずに到来するものとしかいえそうにない(以上の詳細については「付論2 知覚」を参照のこと)。

 探偵小説は近代小説の範疇から半ば以上も逸脱した奇妙なジャンルである。地球に潜入したエイリアンの諜報員が人間を擬態するように、探偵小説は本来的に敵地である近代小説の世界で、かろうじて生き延びるため近代小説を擬態しているにすぎない。

 探偵小説の特異性は、まさに探偵キャラクターに体現されている。探偵は犯人と同じく近代的な内面性を抜き取られたキャラクターだ。「誰がロジャー・アクロイドを殺そうとかまうものか」のエドマンド・ウィルスンのような文学主義者が、「人間が描けていない」という種類の凡庸な非難を飽きることなく探偵小説に浴びせてきたのにも、それなりの根拠はあるに違いない。ウィルスンのような凡庸な文学主義者が、カフカの二〇世紀性を理解しえなかったのも当然である。(P93)

 探偵とは外部の人である。たとえば歯の激痛に襲われている瞬間、それについて反省したり思考したりできない人間存在の必然性に根ざして不可避に経験される外的なもの、他なるもの。懐疑や認識において、このような外部経験を自己統合し内部化してしまう、もうひとつの人間的必然性に抗う小説的装置として、ようするに探偵キャラクターが存在している。

 ポオの探偵小説は、作品空間の内部に「作者―作品―読者」の三肢的構造を方法的に再現し、さらに逆転させる批評性を内包しえている。探偵小説は物語の真相では、犯人(作者)が製作したところの被害者の屍体(作品)に隠された意味を、探偵(読者)が正確に解読するという構造をもつ。しかし表層においては、探偵小説が謎を発見し、むしろ創造するという逆過程を否定しえない。探偵小説が犯人小説でも被害者小説でもありえないのは、このような探偵キャラクターの先行性と特権性に由来している。探偵小説における探偵キャラクターの構造的な優先は、「作者―作品―読者」図式を?倒し、「私は私の真実を語る」近代文学の理念に挑戦するものである。(P94)

 先にも述べたように探偵キャラクターのプロレタリア化は、ハメットの私立探偵コンチネンタル・オプにおいて完成形態に達する。労働力しか売るものをもたない「職業(ジョブ)としての探偵」が、ようやく探偵小説の世界に登場した。外部経験としての読書経験を敷衍するなら、読者=探偵とは外部の人間である。同時に探偵キャラクターの外部性もまたハメット作品において歴然としたものとなる。ハメットが描く私立探偵のキャラクター的な本質は外部のまなざしにある。コンチネンタル・オプは外から悪徳と腐敗が跋扈する鉱山町を訪れ、外から事件を「見る」。しばしば強調されるところの、オプのハードな、あるいはクールな性格は、もともと外部的な存在様式に根拠づけれられているのだ。

 外部の人間であるコンチネンタル・オプも、ときには社会内的な出来事に介入しなければならない。だが、それはファイロ・ヴァンスに代表される「趣味としての探偵」のような、好奇心や暇潰しを動機とした行為ではありえない。オプは労働力を売る以外に存在しえないプロレタリアなのだ。顧客のために調査探偵能力を売るのがオプの「仕事(ジョブ)」である。(P95)

 笠井繁『探偵小説の構造』より。
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