動機論

 

 
  探偵小説形式の自立化には近代的な市民社会の成立が不可欠の前提だったとする見解は、ジャンル論争が二大世界大戦間の時代から広汎に流布されてきた。たとえばハワード・ヘイクラフトは『娯楽としての殺人』で、探偵小説の起源を聖書や古代ギリシア悲劇に求めようとする自大主義を批判し「謎(パズル)小説、ミステリー小説、犯罪(クライム)小説、そして推理と分析の小説はずっと以前から存在していた――探偵小説はそれらすべてに密接に関係している。だが、探偵小説そのものは純粋に近代の産物である。年代的にそうとしかいえない」(林峻一郎訳)と主張していた。なぜなら「探偵というものが生まれるまでは、探偵小説というものもありあえなかったろう(し、また事実なかった)。そして、探偵というものは、十九世紀に至るまでは、存在しなかった」からである。(P63)

 ヘイクラフトは「尋問者が完全に出現したときに、探偵小説が、当然の帰結として、登場してきたのだ」と結論する。以上のような探偵小説=市民文学論は、ヘイクラフトの時代から今日にいたるまで多数の論者の支持を集めてきた。しかし近代的な警察組織や裁判制度が、総じて近代的な市民社会の成立が探偵小説の前提であるという常識的な見解には無視できない難点がある。

 第一次大戦の総力戦体制は十九世紀的な市民社会の古典的性格を決定的に変貌させたのだし、世界がナチズムおよびボルシェヴィズムという二つの収容所国家の脅威にさらされていた時代に、なぜ平板で常識的な探偵小説=市民文学論が提唱され、大方の賛同を集めえたのかは、それ自体として検討に値する問題である。(P64)

 江戸川乱歩は、「英米探偵小説界の展望」で次のように述べている。英米では「一九二〇年から三〇年代にかけて長篇純探偵小説の雄大な開花期を通過したうえで、一応沈滞期入ったので、しばらく個別の作風が流行したとしても、決して不思議ではないのであるが、日本では開花期どころか、本格長篇というおのが二三の例外的作品を除いては、ほとんど書かれないまま今日に及んだのである。(中略)必ずしも英米一九二〇年代の作風を模せよといふのではない。新しい論理文学を創造せよ、そして、日本をして探偵小説の発祥地たらしめよといふのである」。以上のような昭和二十年代前半の乱歩による英米並みの「本格的」な長篇探偵小説の多忙論もまた、政治や経済や主流文学にける近代化や欧米化願望と基本的には同型である日本の戦後精神の産物といえるだろう。ほとんどの場合、戦後日本の作家や批評家が探偵小説=市民文学論を肯定した事実には以上のような精神史的背景が介在しているに違いない。(P64-65)

 だが時代通念に迎合した俗論は、議論としても無視できない欠陥を抱え込んでいる。ヘイクラフトの場合も同様だ。たしかに探偵小説は近代的な警察組織や裁判制度の存在を、その前提としているように見える。しかし事態はヘイクラフトが主張するように単純ではない。性格にいえば探偵小説は、近代的な警察組織や裁判制度を肯定的に前提としているのではない。それを額的に前提としているのである。

 この事実は、最初の探偵小説と評価される「モルグ街の殺人」においてすでに明らかである。物語の終幕で探偵デュパンは、旧知の警視総監を「深い思索者であるためには、いささか利口すぎるからね。(中略)彼の手口は、『あるものを否定し、ないものを説明する』というのさ」(丸谷才一訳)と愚弄する。近代的な市民社会に論理的にも現実的にも対応する近代的な警察官は、「モルグ街の殺人」という探偵小説の起源である作品においてあらかじめその主人公の役割を剥奪されている。デュパンはモルグ街の殺人現場を調査するに際して「警視総監のG**とは懇意だから、簡単に許可してもらえるだろう」と口にする。

 たしかに探偵役は、そして探偵小説は近代的な警察組織を前提とするが、あくまでも否定的に前提としているのだ。(P65-66)

 フリーマン・ウイルス・クロフツのフレンチ警部以降、警察官を探偵役とする作品が次第に増加したのだが、フレンチをはじめ作中で探偵役を務める警察官はたまたま警察に就職したアマチュア探偵である。鮎川哲也の鬼貫警部や松本清張の鳥飼刑事もまた同様。デュパンと警視総監、ホームズとレストレイド刑事のキャラクター論的な二項対立は、警察官を探偵役に選んだ探偵小説の場合、天才肌の刑事や職人的な刑事と常識的な判断力しかもちえない上司や硬直した捜査機構の対立として忠実に再現されることになる。(P67)

 私有財産=被害者、法の支配=警視総監の二項は、市民社会の安定的な存立を前提とも結果ともしている。第三項である思想の自由=探偵は、前二項を否定的に前提とする点で市民社会の制度から逸脱し、それを異化するキャラクターだ。逸脱や異化の前提には市民社会がある。最初に犯人が次に被害者が登場してはじめて、最後に探偵の出番となる。「犯人―被害者―探偵」が探偵小説のキャラクター論的な基本構造といえる。(P69)

 私有財産制=被害者と法の支配=警視総監は市民社会に内属するキャラクターである。しかし市民社会の日常的で平明な現実世界の周辺地帯から、ようするに植民地から侵入してきた異形のものなのだ。「モルグ街の殺人」には市民社会(被害者と警官)と、植民地(犯人)が対立するという潜在的な構図がある。(P69-70)

 探偵のキャラクター的な意味は従って両義的である。探偵は法の支配=警視総監を異化する点で市民社会の論理に否定的だ。しかし法の支配=警視総監の役割を結果的に補完する点では、植民地からの外来者に否定的たらざるをえない。こうした二重性が、最初の探偵役の起源に位置するデュパンの性格には無視しえないものとして刻まれる。(P71)

 近代的な市民社会を支える私有財産制の原理は、封建的な領有や専用とは質的に異なる。土地が富を生むと信じられている以上、生産された富は土地を封建的に領有している王国や帰属に帰属せざるをえなくない。これに市民社会の理念は労働価値説を、ようするに労働が富を生むという経済学を対置したのである。富が労働に由来するものであるなら、生産者である農民に帰属しなければならない。本来的に私有財産制とは、労働から得られた富が生産者に帰属することを保証する社会制度なのである。だが、私有財産制からレスパーネ夫人のように不労所得で生活する金利生活者が誕生する。あるいは労働者と産業資本家の分裂がもたらされる。それは労働価値説や本来の私有財産制から逸脱した、非本来的な事態ではないだろうか。以上のような批判から諸々の近代的な社会主義思想が生じた。(P72)

 『ベニスの商人』を書いたシェイクスピアやスペイン無敵艦隊の補給係という経歴をもつセルバンテスの例をあげるまでもなく、小説形式を中心とする近代文学それ自体が、大航海時代と西欧による世界の植民地化を時代背景として誕生している。市民社会の内部において小説は、詩やエッセイや哲学とは異なる特権的なジャンルをなしてきた。小説は唯一商品たりうる形式として文芸世界に君臨したのだが、その権力の源泉は市民社会の外部に見出さなければならない。沿い欧の外部世界を中心的な主題として扱いえた唯一の文芸形式が、ようするに小説形式だった。(P74)

 市民社会が植民地と、安定的に自己循環する内部が抑圧された外部と接触する瞬間に犯罪が、あるいは犯罪の動機が生じることを発見した瞬間、探偵小説という形式が発生した。そこに恐怖の感情が生じると想定するときに、近代的な恐怖小説が誕生するのである。たしかに両者のモチーフは相補的だろう。しかし恐怖小説や冒険小説がロマン主義文学の範型に忠実であるのにたいし、探偵小説形式はロマン主義を含めた近代小説のメタレヴェルにずれ込んでしまう。探偵小説は、恐怖小説のように異形のキャラクターを作中で描くわけではない。むしろ小説形式それ自体を異形のものと化してしまうのだ。(P75-76)

 市民的な思想の自由なるものが知的ディレッタントとしてキャラクター的に造形されたとき、すでに近代人のロビンソン的な性格は根底から変容しているのではないか。デュパンはロビンソンのように勤勉な労働人ではない。労働による世界の獲得を内面的な価値とするわけでもない。デュパンはおのれをナポレオンに擬するバルザックの主人公のような世界の征服を熱望する能動的な主体ではない。むしろデュパンのキャラクターは、近代人の能動性に対する違和感として存在している。近代的な合理主義や実証主義精神とデュパンの奇妙な分析(アナリシス)の方法のあいだにある差異が、ロビンソン的な私をデュパン的な私の差異を表彰している。前者が近代的な自我であるとするなら、後者は近代的自我の表面に走る自意識の亀裂だろう。(P76)

 ポオ、コリンズ、そしてドイルと探偵小説の系譜を辿る上で無視しえない有力作家による探偵小説の代表作が、共通して犯罪の動機を植民地に設定している事実は決して偶然の結果ではない。同様の事例は戦前の日本にも見出すことができる。夢野久作の「氷の涯(はて)」や小栗虫太郎の「完全犯罪」など、アジアの植民地を舞台とした探偵小説の傑作は少なくない。

 当時の主流文学がほとんど植民地の存在を無視、あるいは欺瞞的に忘却していた時代に、それを探偵小説が作中に積極的に導入しえたのにも、作家それぞれの興味や知識には還元しえない根拠がある。探偵小説は「モルグ街の殺人」以来、内部と外部が、市民社会と植民地が接触せざるをえない場所に事件を、さらに犯罪の動機を見出してきたのだ。(P78)

 笠井繁『探偵小説の構造』より。
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