ドグラ・マグラ(2) 夢野久作 

 

 そして、それらは『ドグラ・マグラ』という小説作品の中で若林博士の「……そのようなものが、さまざまの不可解な出来事と一緒に、本筋と何の関係もないような姿で、百色眼鏡のように回転し現れて来るのですが、読んだ後で気が付いてみますと、それが皆、一言一句、極めて重要な本筋の記述そのものになっておりますので……のみならず、そうした幻魔作用(ドグラ・マグラ)の印象をその一番冒頭になっている真夜中の、タッタ一つの時計の音から始めまして、次から次へと逐いかけて行きますと、いつの間にかまた、一番最初に聞いた真夜中のタッタ一つの時計の音の記憶に参りますので……それは、ちょうど真に迫った地獄のパノラマ絵を、一方から一方へ見まわして行くように、おんなじ恐ろしさや気味悪さを、同じ順序で思い出しつつ、いつまでもいつまでも繰り返して行くばかり……逃れ出す隙間がどこにも見当たりません。……というのは、それらの出来事の一切合切が、とりも直さず、ただ一点の時計音を、ある真夜中に聞いた精神病者が、ハッとした一瞬間に見た夢に過ぎない。しかも、その一瞬間に見た夢の内容が、実際には二十何時間の長さに感じられたので、これを学理的に説明すると、最初と最終の二つの時計の音は、真実のところ、同じ時計の、同じただ一つの時鐘の音であり得る……ということが、そのドグラ・マグラ全体によって立証されている精神科学上の心理によって証明されうる……という……それほどさようにこのドグラ・マグラの内容は玄妙、不可思議に出来上がっておるのでございます」という説明の通りに記述されて行く。

 ……ブウウウ――ンン――ンンン…………。という『ドグラ・マグラ』最後の一行を読み終えたとき、読者がこれまで読んできた作品が本編なのか、作中作なのかわからなくなってしまうのである。始まりと終わりとが円環するウロボロス、あるいはメビウスの輪のように、狂気に陥った青年の一瞬の夢のようでもあり、「腐敗美人絵巻」によって誘発された凶悪な殺人事件など本当はなかったのかもしれないという錯覚に囚われることになる。

 それにしても『ドグラ・マグラ』とは奇妙なタイトルだが、その意味は冒頭で「このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹判天連の使う幻魔術のことを言った長崎地方の方言だそうで、ただ今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませんが、強いて訳しますならば、今の幻魔術もしくは『堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)』『戸惑面喰(とまどいめんくらい)』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』としてよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部をひっくるめたような言葉には相違ございさません」と若林博士によって説明されている。そして、このタイトルを付けた理由についても「つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説形式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、かような名前を付けたものであろうと考えられます」と同様に説明がなされている。

 若林博士のこのような説明に得心のいかない主人公の青年は「……脳髄の地獄……ドグラ・マグラ……まだよくわかりませんが……つまりドンナことなのですか」と問い返す。若林博士はもの静かな口調で「このドグラ・マグラ物語の中に記述されております問題というものは皆、一つ残らず、常識で否定できない、わかり易い、興味深い事柄でありますと同時に、常識以上の常識、科学以上の科学ともいうべき深遠な心理の現われを基礎とした事実ばかりでございます」と答え、先のような説明をすることになる。

 

 これまで『ドグラ・マグラの夢』(狩々博士)をはじめとする多くの夢野久作論が、「キチガイ地獄外道祭文」における精神医療批判、「胎児の夢」や「脳髄論」における心理学批判、生物学批判などに注目してきた。探偵小説の世界では、『ドグラ・マグラ』が書かれた大戦間の時代に、心理学を作中に導入する手法は、むしろ流行の尖端にあったともいえる。もちろん、このアイディアの提唱者は(「モルグ街の殺人」のポオを例外とすれば)、探偵小説の中心地をイギリスからアメリカに移動させた本格派の巨匠ヴァン・ダインだった。ヴァン・ダインは、第二作『カナリア殺人事件』で心理学的推理による犯人当てを試み、第三作『グリーン家殺人事件』では遺伝的精神病質による犯行の動機を設定した。さらに第四作『僧正殺人事件』では、犯人の異常心理を擬似心理学的説明により、きわめて説得的に語りえている。しかし、探偵小説に精神医療批判や心理学批判を持ち込んだ例はほとんどないといってよい。

 『ドグラ・マグラ』の中で正木教授が展開する千余年もの間をおいて狂気が遺伝するという「心理遺伝」や脳髄は物を考えるところにあらず、一種の電話交換局に過ぎないという「脳髄論」はSF的といってほどの内容である。架空の科学的方法ないし科学的知見を小説作品において描くのは、探偵小説よりもむしろSF小説の領域に属する手法である。作者もそれを自覚しているようで「もちろん火星征伐の建白なぞとは全然、性質を異にした、精神科学上研究価値の高いものと認められましたところから」というような但し書きを付けている。
 「心理遺伝」に関しては、クローン技術が発達した現代にあっても、形態や形質は再生できても、記憶や意識までは再生できないとされている。一方でマイクル・コーディの『クライム・ゼロ』のように犯罪を犯す可能性の高い遺伝子を認め、それを根絶しようとするSF的なミステリィも書かれ始めていることも確かである。人間の完全なクローンが存在していない以上、また、遺伝子の謎も解明されていない以上、現状では確かめようのないことであるが、ガンにかかり易い遺伝子があるのなら、犯罪を犯す可能性の高い遺伝子が存在しても不思議ではない。ただ、千余年を経て全く同じ犯罪を犯す可能性を考えると否定的にならざるをえない。

 しかし「脳髄論」に関しては「……『物を考える脳髄』はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔の中の悪魔である。……天地開闢の初め、イーブに知恵の果を喰わせたサタンの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが『物を考える脳髄』の全身である」さらに、「人間を神様以上のものと自惚れさせた」「人間を自然に反抗させた」「人類を禽獣の世界に逐い返した」「人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた」「人類を自滅の斜面(スロープ)へ逐い落とした」という5項の「髄の罪悪史」や、「生命の本源を神様の摂理なぞというのは嘘だ。神様は人間の脳髄が考え出したものに過ぎないのだ。……この脳髄を見よ……。生命の本源はこの千二百グラム、ないし、千九百グラムの蛋白質の塊の中に宿っているのだ。われわれの精神意識というものは、この蛋白質の分解作用によって生み出された、一種の科学的エネルギーの刺激に他ならないのだ。……すべては脳髄の思召しなのだ……。科学の発見した脳髄こそ、現実世界における全知全能の神様なのだ」という表現を見る限り、夢野久作の「脳髄論」は、単なる精神医療批判や心理学批判にとどまらず、観念批判であり、科学万能社会批判でもあるといえるだろう。しかも、夢野久作が『ドグラ・マグラ』の基礎となる「狂人」の執筆を開始したのは1927年(昭和2年)というからおどろきである(『ドグラ・マグラ』として刊行されたのは1935年である)。
 

 

 

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