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笠井潔は『物語のウロボロス』の中で、「『ドグラ・マグラ』における擬似心理学の執拗きわまりない体系的展開は、あくまでもそれが正木という「犯人」の観念であるという点において、作品的必然性を保証されている。「専門の医学と縁の薄い、迷信とか、暗示とかいう問題」を科学的に究明すべく正木は、「『因果応報』もしくは『輪廻転生』の科学的原理……すなわち『心理遺伝』」の仮説を考案し、そして二十年がかりの大実験計画=大犯罪計画を企てる。「心理遺伝」の仮説に結実する擬似心理学的体系はあくまでも、このような背景のもとに構想されているのだし、「キチガイ地獄」の精神医療批判もまた正木のその動機を説明すべきものとして提出されているのだ」と述べた上で、「作者の意図は、ここにおいて明瞭となる。作者は、観念を批判する観念は、それがいかに「科学」の名において自己を正当化しようとも、やはりもうひとつの観念に過ぎないという事態について語ろうと努めているのだ。呉青秀の内面的な正義感は、正木により批判的に対象化される。正木による「科学」的視点は、青秀の自己欺瞞的な内面の外部に位置しているように見える。しかし、青秀という内部の病理を抉り出す正木の心理学もまた、それがいかに「科学」的であろうとも、正木自身においてやはり内面的な心理観念に過ぎない。このように観念は無限循環する。内面もまた、不可避に無限循環していくのだ」と結論づけている。
笠井は『物語のウロボロス』の前半で、芥川龍之介の「地獄変」と『ドグラ・マグラ』という作品世界の起源あるいは中心に位置している呉青秀のエピソードとを比較し、その類似性を検討しながら、芥川の「地獄変」は「作者芥川の美という観念が、現実的世界の喪失を隠蔽し、それを擬制的に回復するための倒錯の産物であるのだとしたら、「地獄変」に埋め込まれている「芸術−芸術家−芸術作品」という物語装置における系もまた、その総体において観念的倒錯の産物にすぎないというべきなのである」と評している。
それに対し、笠井は「構成的にほぼ同型の物語を提出しながら、夢野久作の場合は、芥川とまったく異なった視角から問題を展開してしまう」と指摘する。「呉青秀は、楊貴妃の色香にまどわされて国政をおろそかにしている玄宗いさめるため、自ら絞殺した黛夫人の死体を、白骨になるまで順次絵巻物に描いて、それを皇帝に献上し、『その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢なさ、人生の無常さを目の前に見せてゾッとさせる計画』をたてる。つまり呉青秀は、「忠君愛国」といった倫理的観念に呪縛されて「腐乱美人絵巻」の制作にとりかかるのだが、作者は、この観念的倒錯を次のように幾重にもわったって、執拗に暴きたてていく」というのである。
「基本的に同型の構図を提出しながら、にもかかわらず存在している夢野久作と芥川龍之介の相違点は、いまや明瞭だろう。夢野は、そこで芥川が「現実的世界喪失の観念的事故回復」という倒錯的劇(ドラマ)を演じていく場所で、正義と言う観念あるいは美という観念の下に隠蔽されているものを容赦なく暴き出していくのだ。つまり呉青秀の正義という観念は、満たされない「変態性欲」という現実的な喪失を、巧妙に隠蔽していくべき倒錯した観念にすぎないという事態が、ここでは徹底的に暴露されていくのである」という笠井潔の指摘は説得力がある。
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