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黒いトランク(4) 鮎川哲也(あゆかわてつや) |
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| 「近代的な小説ジャンルは誕生の瞬間から、(エミール・ガボリオのように)「量産」を運命付けられていたともいえる。詩と比較して小説が通俗的なジャンルであるとみなされてきた事実には、歴史的な根拠がある。ロマン主義的な詩人の場合、詩作とは神秘的な天啓のたまものだろうが、はじめから小説創作は商売として生じたのだ。小説ジャンルに本質的である、この現地的な「通俗性」に注目しなければならない」と笠井潔氏が述べていることに注目すべきであろう。だから「コードに準拠したトラベル・ミステリが、現在も大量消費されている。そのこと自体を価値的に否定することはできない。はじめから小説とは、そうした「凡庸な文学形式」として発生したのである。最初の探偵小説作家であるポオもまた、雑誌の売り上げに貢献することを目標とした文の商人の自覚において、明らかにバルザックやシューやガボリオの同時代人である」(笠井潔『模倣における逸脱』)。 |
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| しかし、以上のような事実は、必ずしも作品価値を消去するものではない。私たちは傑作と駄作の区別が存在することを知っている。他のガボリオ作品が歴史の波間に呑まれ、ほとんど消えうせたとしても、『ルコック探偵』は新たな読者を獲得し続けている。七月王政期には同格の新聞小説作家として遇されていたバルザックとシューだが、『人間喜劇』に代表されるバルザック作品とシュー作品の価値における差異性は、すでに歴史が証明したといえるだろう。では、このように作品的価値に差異性が生じる根拠は、どこにあるのだろうか。 「たぶん小説における創造性とは、コードに内在しながら、それを微細にずらしてしまうこと以外ではない。模倣における逸脱、反復における差異のデリケートな質感が、その作品の価値を決定する。近代においても音楽や詩は、精神的な純粋性に等置される完璧な独創性を夢想してきた。しかし「通俗的」な形式でもある小説は、そのような特権的な夢想の権利を最初から奪われていた。模倣における微細な逸脱が、かろうじて小説に許された自由の領域となる」のだと笠井氏は述べている。その代表例がアンチ・ミステリィとしての『ドグラ・マグラ』であり『虚無への供物』なのである。 私は総じてトラベル・ミステリィを好まない。西村京太郎の小説は多分1冊も持っていないと思う。それは『黒いトランク』や『点と線』を越える感動をトラベル・ミステリィに感じることができないせいだろう。加えて時刻表自身にほとんど興味がないせいもある。頭のなかで推理を組み立てることは好きだが、時刻表と首っ引きで連絡可能な列車を探し出すと言う地道な努力が苦手なためだろうと思っている。さらには、犯人に鉄壁なアリバイがあればあるほど、必ず時刻表に逆走して戻り元の列車に乗車することが可能であるという大前提がそのまま利用されている点にもある。まして飛行機が奔放に飛び回る時代なのである。松本清張の『点と線』を始めて読んだときも、何故警察は飛行機の時刻表を調べないのだろうと不思議に思ったほどである。その点、フェア精神をモットーとする鮎川哲也氏は『黒いトランク』の時代設定を戦後の米軍の規制で日本航空が飛行できない状況を前提としている。 |
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| 『黒いトランク』の面白さはなんといっても2つの同型のトランクの存在意味と利用方法である。それが列車の時刻表トリックと絶妙に組み合わされていて、最後の最後までわからなかった。鮎川哲也氏の「読者をだまくらかすためのあの手この手」のトリックは「心理トリック」が多いような気がしている。これは作家の特徴で、こうした特長がわかってしまうと犯人探しや謎解きが比較的容易になってしまうので、これ以上の言及は避けたいと思う。 |
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