群衆論

 

セブンアンドワイ
 探偵小説が探偵小説としての自己意識を獲得したのは、第一次大戦後のことである。この点から探偵小説形式を、ダダイズム、シュールレアリスム、表現主義、フォルマリズムなど第一次大戦後に各国で展開された、モダニズム芸術運動や文学運動との関連で捉えることができる。また、モダニズム芸術運動と、やはり大戦後に盛大に流行した二〇世紀的な大衆文化――映画、ラジオ、写真、ラインダンス、ジャズ、等々とのあいだには無視しえない影響関係がみられるのだが、もちとん探偵小説にしても同様である。探偵小説を大戦間の新しい大衆文化、大衆文学を代表するものであると見なし、それに言及している論者も少なくない。

 大戦争(グレート・ウォー)とよばれた第一次大戦の惨憺たる経験の中から、直接に生じたところの二〇世紀的な芸術と文化。あるいは哲学と思想、さらに文学。その不可欠な主題をなすものとして、探偵小説を論じている大戦間のドイツの有名な哲学者や批評家として、『異化』のエルンスト・ブロッホ、『探偵小説論』のカール・クラカウアー、『パサージュ論』のヴァルター・ベンヤミンなどをあげることができる。本章では、ベンヤミンの探偵小説論を補助線として活用しながら、探偵小説形式と群衆存在の関係を見ていきたい。(P45)

 オルテガによれば群衆現象は、第一次大戦後の時代に無視できないものとして、新たに観察されはじめた。後に群衆として都市の街路を満たす人々は、戦前には「個人もしくは小集団」として、それぞれに固有の場所を与えられていた。オルテガの「小集団」は、カネッティが『群衆と権力』で「群衆」と概念的に区別している「群れ」に相当するだろう。固有の場所から切り離された個人や解体された小集団の残骸が、大戦後に群衆として登場するにいたる。またモスコヴィッシも、群衆あるいは大衆という「その言葉は、フランス大革命以来、日常の言葉のなかにしばしば舞いもどってくる。けれども、その言葉の意味を精密化し、それに科学的意味をもたせるには、二〇世紀を待たなければならなかった。大衆とは、平等で無名の互いに相似た個人の、束の間の集合体であり、その中にあっては各人の諸観念とさまざまな情緒が自然発生的に表出する傾向を持つ集合体なのである」(『群衆の時代』古田幸夫訳)と述べている。

 文中の「二〇世紀」には、二〇世紀初頭のベル・エポック期は含まれていない。では、どんな理由で第一次大戦後の時代に群衆が、人間観の支配的な存在様式として新たに誕生したのか。十八世紀の産業革命と市民革命は前近代的な共同体を急激に解体し、独立自尊の近代的個人の時代をもたらした。大量に誕生した近代的個人とは、ようするに固体化された共同体にほかならない。周囲から独立した自己完結的な主体は、かつて共同体であり、そして近代において個人なる存在が、それに匹敵する特権的な小宇宙としての地位を獲得する。
 だから近代的個人には、固有の内面性というロマン主義的な神話が信じられてもいた。社会は無数の個人で構成されているが、それは群衆のように「平等で無名の互いに相似た個人」の無構造的な集積ではない。この私は、他人と交換不能である固有領域をなしている。そのような私が相互に契約を結びあうことの結果として、近代的な市民が構成される。だから私は、市民社会という公的な場において、果敢に自己実現を試みる能動的な主体でもある。ルソーの『告白』、ゲーテの『ファウスト』、スタンダールの『赤と黒』等々の近代文学の古典はいずれも、そうした近代人が成立する論理を説得的に明らかにしている。(P46-47)

 かくて大量死は必然的に大量生に転じ、オルテガに「彼らには『中身』が、つまり頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が、取り消すことのできない自我が欠如している」と批判された群衆存在が、否定しえないものとして生じた。機関銃の無差別掃射の前では、帰属も労働者も英雄も卑怯者も区別はないのである。近代小説のヒーローが探究した内面的な価値は、もはや前提から崩壊している。戦争で大量殺戮されている運命の私にとって、近代人の高貴な精神性など、「頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神」など空疎な美辞麗句にすぎないだろう。

 ところでオルテガは「現在ヨーロッパとその隣接地帯で行われつつある二つの『新しい』政治的試み、つまりボルシェヴィズムとファシズム」を、「両者とも野蛮への後退なのだ。そして、過去全体を消化しようとせずに、単純に過去のあの部分この部分と格闘を演じるあらゆる運動は、いずれも野蛮への後退なのである」と批判している。(P48-19)

 (前略)ベンヤミンによれば「探偵小説の根源的な社会内容は、大都市の群衆のなかにでは 個人の痕跡が消えること」にある。密林に隠れた獣と、群衆の中に紛れ込んだ犯罪者。両者を類比的な交換可能なものと見なした想像力の歴史的水準には、「群衆」という奇怪な存在に関する考察が欠如しているのだ。(P53)

 ベンヤミンは「探偵小説の根源的な社会内容は、大都市の群衆のなかにでは個人の痕跡が消えることである」と主張する。このことは、デュパン連作の第二作「マリー・ロジェの謎」で明確に提示されていると。たしかに「マリー・ロジェの謎」では、もはや冒険小説や幻想小説に由来する道具だては影をひそめている。その点では、きわめて平明かつ散文的な印象の作品といえる。

 「マリー・ロジェの謎」では、犯人はむろんのこと被害者もまた群衆のなかに消滅している。第三作の「盗まれた手紙」ではどうだろうか。ほとんど特権階級の邸と、その室内のみを舞台にした作品には都市の雑踏も群衆も無縁のものであるように思われる。だが、「盗まれた手紙」において探偵小説の可能性は、後世に決定的な影響を与えるだろう大いなる飛躍を遂げたのである。群衆のなかに個人の痕跡が消え去るという現代的な必然性を、作者は「きわめて自明だからかえって手を焼くことになる」という言葉に託して、可能な限り普遍化している。大戦間の英米探偵小説にはS・S・ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』やエラリー・クイーンの『エジプト十字架の謎』のように、ゴシック小説的な道具だてを過剰に導入する点において「モルグ街の殺人」から学んでいる作品が少なくない。(P58-59)

 「盗まれた手紙」には探偵小説形式の確立において、もう一点、忘れることのできない画期性が見出される。前二作の作品空間も、構造的には「謎―論理的解明」の基本形式によって支えられている。しかし「モルグ街の殺人」や「マリー・ロジェの謎」では、この基本形式がキャラクター論的な水準まで展開されていない。「謎―論理的解明」の基本形式は、「犯人―探偵」という対項的役柄性にまで媒介されていないのだ。「盗まれた手紙」においてようやく、探偵役デュパンに匹敵する小説的重量を吹き込まれた犯人役としてD**が登場する。いうまでもないだろうが、「モルグ街の殺人」におけるオランウータンや水夫、探偵の推理のなかにのみ仮説的に存在している「マリー・ロジェの謎」の犯人、等々は探偵キャラクターと対項的な犯人キャラクターとはいえない。

 このようにして、探偵小説形式の近代小説としては異様ともいえる特性が、あらためて照らし出される。探偵デュパンは作品が終幕を迎える直前まで、決して胸中を明かそうとしない。むろん犯人D**もまた。探偵小説においては、作品を両極から支える二大キャラクターのいずれもが内面性を剥奪されざるをえない。原理的には、探偵も犯人も内面的に描写されることを拒絶している。以上が探偵小説としての作品構成の原理をなしている。

 第一次大戦を通過した文学として、しばしば最高の達成であると評価されるカフカの作品では、『審判』のヨーゼフ・Kや『城』のKのように、芯をくり抜かれた焼きリンゴさながらに、あたかも近代的内面を抜きとられたような人物が登場する。それは性格に近代的個人を殺害したグレート・ウオーの感覚に照応している。カフカの小説では内面性を剥奪された近代的人間の残骸が作品空間を彷徨するのだが、探偵小説の場合には、作品空間がそれ自体の論理において人物から内面性を剥奪してしまう。

 内面性や精神性を欠如した人間の存在様式とは、ようするに群衆である。はじめて群衆存在を近代小説の世界に導入したポオは、同時に近代小説の中心的主題をなしてきた人間の内面性や自我を世界から追放したのだ。それも、たんに近代的自我を破壊された人物が作中を徘徊するという水準ではなく、作品構成の原理からして、主要人物には内面性が前提的に剥奪されざるをえないという異様な小説形式を発明した点において。(P60-61)

 笠井繁『探偵小説の構造』より。
<BACK・NEXT・・>

 

    time

 

・ Hello ・